江戸後期になると、粉本主義に陥った狩野派は衰退していき、全国的に南画や写生主義の円山四条派がそれに代わっていった。都城でも四条派の絵が盛んに描かれるようになり、その先駆けである速見晴文をはじめ、鶏の絵を得意とした赤池南鳳、美人画の石坂古洲、洋式の肖像画や油絵も学んだ北郷南水らが活躍した。
赤池南鳳(1835-1912)
天保6年都城生まれ。島津家家臣・吉瀬種勝の子。明治の初めに母の実家・赤池家に入った。名は春一。別号に勃公子、啓關堂がある。鶏の絵を得意とした。11歳の頃から鹿児島の四条派・若松則文、竹村大鳳、税所文豹、三原文叢らに画法を学んだ。13歳の時には京都で絵の修業をするように藩命があったが、当時の赤鳳は粗暴なところがあり、遠く京都で問題を起こすことを恐れた両親は、これを辞退した。明治14年から3年間、伊予国の絵師・小波南洋が都城に滞在した際に円山派の画法を学んだ。内国絵画共進会の第1回展、第2回展に出品している。弟子に益田玉城、菊池栖月がいる。明治45年、78歳で死去した。
速見晴文(1821-1902)
文政4年生まれ。名は雄吉、晴章と称し、緑濃舎と号した。家は代々領主の秘書役であったが父の代に侍医も兼ねるようになった。画才のある祖母の影響もあり、幼いころから絵に興味を持っていたと思われる。やがて領主の命により鹿児島で絵と医術を学ぶようになり、絵は竹下寒泉、和田芸谷に師事した。晴文は常に「吾景文の写生を愛するも筆力は雄健を尚う」と口にし、四条派の祖・松村景文に傾倒していた。内国絵画共進会の第1回展、第2回展に出品した。明治35年、82歳で死去した。
石坂古洲(1843-1886)
天保14年生まれ。名は氏貫。別号に岳南がある。美人画には仙龍の号を用いた。若いころから鹿児島に出て学問や馬術などを修業したが、絵は誰にも師事せず、諸家の所蔵する絵を模写したりして独学した。速見晴文に学んだともされる。美人画の三畠上龍に私淑し、内国絵画共進会の第1回展と第2回展に出品した。明治19年、44歳で死去した。
北郷南水(1858-1913)
安政5年生まれ。幼名は左太夫、名は資包、のちに祥一。素影堂南水とも号した。画は速見晴文、石坂古洲に学び、赤池南鳳と同じく明治14年から3年間小波南洋に円山派の画法を学んだ。明治16年から2年間長崎に滞在し、洋式の肖像画や油絵を学んだ。内国絵画共進会の第1回展と第2回展に出品した。大正2年、56歳で死去した。
宮崎(10)-画人伝・INDEX
文献:宮崎県地方史研究紀要第12号「宮崎の近代美術」、郷土の絵師と日本画家展