飫肥藩の絵師としては、天保の頃、横山惟儀(不明-不明)、横山養徳(1799-不明)の親子がいた。惟儀は江戸で狩野派に学び、「花木、禽鳥可ならざるはなし」と言われたという。早くから山林愛護の大切さを説いたといわれ、時の藩主・祐相も惟儀の説を重んじて新年から門松を用いることを禁止したという。そのためか、飫肥地方には現在でも特殊な門松が伝わっている。
子の養徳も狩野派に学び、『飫肥藩先人伝』には「蜜画をよくし、父の右に出づ」とある。飫肥城歴史資料館に初代飫肥藩主を描いた「伊東祐兵画像」が残っている。弟子に学者であり教育にも携わった門川加世子(1798-1882)がいる。門川は、玉瑛と号し、酒をたしなみ、酒の間に軍書を談じたという。
江戸時代後期になると、土佐派の図師舟堂(1828-1910)が飫肥藩画壇の中心となって活躍した。舟堂は江戸に出て、奥絵師の板谷桂舟について画法を学んだ。和歌もよくしたという。
横山惟儀(不明-不明)
天明頃生まれ。金治郎とも称した。年少の時に江戸に出て、師が誰であったかは不明だが狩野家で数年間学び、山水、人物、花鳥などみな得意とした。帰郷後は17石の禄を受け、中小姓をつとめながら藩士子弟に絵を教えた。「東方朔図」が残っている。
横山養徳(1799-不明)
寛政11年生まれ。儀右衛門とも称した。横山惟儀の子。父の後を継ぐべく江戸に出て狩野家で数年間絵を学んだ。師の名前は不明。『飫肥藩先人伝』には40歳にもならないうちに没したとあるが、66歳の時に描いたとされる「大黒図」が残っており、没年は定かではない。
図師舟堂(1828-1910)
文政11年生まれ。門川長兵衛の二男。図師助六郎の後を承けて中継養子となり、菅六郎と称した。嘉永元年江戸に出て、奥絵師の板谷桂舟について3年間住吉派の絵を学んだ。その後小田切直介という絵師にもついたが、その死によって再び桂舟の門に戻り、文久3年に帰郷した。明治2年に測量絵図方、のちに地図調方をつとめた。明治15年国内絵画共進会に出品した。その後戸長や飫肥小学校で画学教員などをつとめた。明治13年、82歳で死去した。
宮崎(8)-画人伝・INDEX
文献:宮崎県地方史研究紀要第12号「宮崎の近代美術」、郷土の絵師と日本画家展