遠藤速雄が生まれた慶応2年は、薩長同盟が成立し、幕末の政治的動乱が始まろうとしていた年だった。仙台藩士だった父・允信は、版籍奉還後、京都の平野神社の宮司として赴任、11歳だった速雄もそれに従って京都に上がった。
京都では、原在泉に師事して四条派の画法を学んだ。明治15年に17歳で第1回内国絵画共進会に出品、翌年には龍池会の主催でパリで開催予定の「巴里日本美術縦覧会」の出品者に指名された。同年大阪絵画品評会で第4等賞状を受け、明治19年の京都私立青年絵画研究会でも受賞している。
京都をいつ離れたかは定かではないが、明治24年には帰郷していたことが確認されている。この年は父が塩釜神社宮司に赴任しており、速雄は神社近くの醸造元・佐浦に寄寓している。その後は、明治36年に金沢で開催された全国絵画共進会で褒状を得たこと以外の展覧会出品の記録は確認されていないが、仙台で制作活動を行なっていたとみられる。
遠藤速雄(1866-1915)えんどう・はやお
慶応2年一迫町生まれ。父は仙台藩藩士だったが版籍奉還後、京都の神社の宮司となったため、それに従い京都に移った。京都で原在泉に師事し、四条派の画法を学び、日本青年絵画共進会にも出品した。明治24年頃に帰郷した。大正4年、50歳で死去した。
宮城(17)-ネット検索で出てこない画家
文献:仙台市史特別編3(美術工芸)、仙台画人伝、福島美術館優品図録
応挙・呉春・蘆雪―円山・四条派の画家たち | |
東京藝術大学出版会 |