津藩士として藤堂家に仕えた斎藤拙堂(1797-1865)は、漢学者として名高く、多くの儒学者や文人と交流し、土井聱牙、川北梅山、中内樸堂をはじめ多くの門人を育てた。その中には宮崎青谷のように画人として名をあげたものもいた。
宮崎青谷(1811-1866)みやざき・せいこく
文化8年生まれ。名は定憲、字は士達、通称は彌三郎。津藩士。幼い頃から学問を好み、斎藤拙堂に従って学び養正寮句読師となるが、その翌年に暇をもらい京都に遊び、猪飼敬所に従って経学を学び、頼山陽に文章を学んだ。その後江戸に出て昌平黌で一年間学び帰郷した。画は米村醉翁に学び、「出藍の誉れあり」と賞賛された。のちに藩主・藤堂家が所蔵していた王建章の画法を学んで一家をなし、名は一時にして高まった。斎藤拙堂が大和の月ケ瀬に遊んだ際には青谷らも従って行き、帰ってから著した拙堂の代表作である『月瀬記勝』には、青谷が描いた梅渓の図が掲載されている。慶應2年、56歳で死去した。
米村醉翁(不明-不明)よねむら・すいおう
文政年中の人。津の人で画をよくした。宮崎青谷は醉翁の門から出たとされる。
江村晴虹(不明-不明)えむら・せいこう
文政頃の人。津藩士で、南画をよくした。宮崎青谷、またはその門に学んだとされる。
富岡九峯(1845-1892)とみおか・きゅうほう
弘化2年津市大門町生まれ。名は定礎、字は介石、幼名は石之助、通称は太郎兵衛。家は代々呉服商を営み、九峯は九代目。宮崎青谷と藤澤南岳について和漢の学を修め、詩画をよくした。画ははじめ青谷の画風を学び、のちに元明の画法に学んで山水を得意とした。多芸で、音楽、茶道などもよくした。明治25年、48歳で死去した。
永田梅石(1842-1880)ながた・ばいせき
天保13年生まれ。安濃津東町の人。父は片岡五郎右衛門。幼い頃から画を好み、宮崎青谷に学んだ。明治13年、39歳で死去した。
谷口湘客(不明-不明)たにぐち・しょうきゃく
近代の人。通称は徳蔵、俳号に之有がある。津藩士で、城西古河に住んでいた。川北梅山に漢学を、宮崎青谷に画を、中澤雪城に書礼を、八木芹舎に俳諧を学び、すべてにおいて優れていたという。大正の初年頃に80歳で死去した。
三重(7)-画人伝・INDEX