現在の三重県は、かつて伊勢国、伊賀国、志摩国と紀伊国の一部からなっており、江戸時代には上方と江戸を結ぶ交通の要所として栄えた。伊勢商人の活動にともなう経済発展や伊勢参宮の流行などもあり人的交流が盛んで、多くの画人たちもこの地を訪れ、伊勢の文化繁栄に大きく寄与した。
なかでも江戸中期に伊勢、伊賀を歴遊し、多くの創造的な大作とともに、少なくない奇行のエピソードを残した曾我蕭白(1730-1781)の存在は大きい。蕭白の生涯は不明な点が多いが、この地で、浄明院住職の頑極、藤堂藩お抱えの儒者・奥田三角、松阪継松寺の僧・無倪、書家の韓天寿ら多くの文人たちと交友があったようだ。
蕭白研究で知られる桃沢如水の一節を再録した『三重県史談会々誌』と、如水の友人である三村竹清が加えた補遺によると、蕭白の伊勢における門人として、頑極、田中岷江、奥田三角、奥田龍渓があげられている。
頑極(1748-1808)がんきょく
寛延元年伊勢椋本村生まれ。諱は祖隆。安濃津乙部の浄明院第7世住職。浄明院に転住する前には本山にあたる京都上京の興聖寺の住持を務めていた。興聖寺には蕭白一族の墓所があり、また、津藩主藤堂家は堂寺の大檀那であった。彫刻もよくし、刀味の鑑識にも優れていた。『続三重先賢伝』には、「性畫ヲ好ミ嘗テ曾我蕭白ト興聖寺ニ於テ其ノ人ト為リヲ共ニ爾汝ノ友タリ彼我ノ往來常ニ絶エス互ニ其ノ技ノ雌雄ヲ爭ヘリトイフ」と蕭白と頑極の関係を記している。文化5年、61歳で死去した。
田中岷江(1735-1816)たなか・みんこう
享保20年阿山郡東柘植村大字中柘植生まれ。名は忠光、通称は岩右衛門、別号に淳徳がある。田中忠興の子。根付作家として知られるが、画もよく描いた。作品には随所に「門人」らしく蕭白に追随する特徴が現れている。また、画風上の類似だけではなく、画系意識でも通ずるところがあるといわれる。岷江は落款に雪舟支流と記し、雪舟の画系上の末裔を匂わせているが、これは蕭白が同じ室町時代の画系曾我派の末裔を名乗っていることに似ている。『三重県の画人伝』では、岷江の画風と落款について「多くは水墨の草画にして龍鷲鷹皷腹狸白蔵主等豪壮にして奇怪なるもの多しその画風蕭白に似たるものあり或いは雪舟に類するものあり中には雪舟支流等楊等の落款を附すものあり」と記している。文化13年、81歳で死去した。
奥田三角(1703-1783)おくだ・さんかく
元禄16年生まれ。名は士亨、字は嘉甫、通称は宗四郎。別号に南山、蘭汀などがある。兄の奥田龍渓と同じく蕭白の画に賛を寄せている。幼い頃は柴原蘋州に学び、蘋州の勧めで京都に出て伊藤東涯門下で古学を修めた。のちに伊勢に戻り津藩に儒員として務めた。きわめて真率篤実な人物だったといわれるが、度が過ぎていたらしい。三角形を偏愛して、身の回りの物をすべて三角形にしなければ気が済まなかったという。号も「三角」にしている。『続近世畸人伝』二巻に登場しており、偏執的な性癖を伝える逸話が残っている。天明3年、81歳で死去した。
奥田龍溪(不明-不明)おくだ・りゅうけい
奥田三角の兄。伊勢参宮街道沿い、松阪と斎宮の中間に位置する櫛田に生まれ、一時津藩に仕えていたが致仕して郷里に戻り大庄屋を継いだ。『存心』と題された龍渓の著書に蕭白が挿絵を描いている。いかにも酒席の戯れといった趣の画賛で、ふたりの親しい交遊の様子がしのばれる。
三重(1)-画人伝・INDEX
文献:三重の近世絵画(三重県立美術館)、三重県の画人伝、三重先賢傳・続三重先賢傳、続近世畸人伝