狩野正信「山水人物図」重文
狩野派の始祖・狩野正信(1434?-1530?)の出自については、曖昧な点も多いが、伊豆(静岡県)の出身と思われ、その後京都に出たとされる。歴史上初めて登場するのは、寛正4年の相国寺雲頂院の壁画制作だが、本格的な活動は小栗宗湛没後に室町幕府の御用絵師となって以降のことと思われる。
師系は、江戸時代の画伝類がほぼ一様に周文、あるいは小栗宗湛に学んだと伝えているが、一方でやまと絵系の土佐派の弟子とする有力な同時代史料も残されている。
画業については、足利義政や義尚、日野富子らの命による将軍家関連の画事をはじめ、管領の細川政元や守護大名の赤松政則、さらには相国寺僧たちからの要請も受けていたと思われる。当時の絵画制作は基本的に宋元の手本が指定され、それをまねて描くことが求められたため、それに応えた正信の作風は多岐にわたり、足利将軍の肖像画や仏画も手掛けている。
正信の時代は、まだ狩野派は個人経営の域を出なかったが、その後同派は有力な絵師を次々と輩出し、室町、桃山、江戸の3時代、約400年にわたって存続し、つねに画壇の主流として活躍することとなる。
狩野正信(1434?-1530?)かのう・まさのぶ
→狩野派の始祖・狩野正信と足利の武将画人・長尾一族
京都(47)-画人伝・INDEX
文献:日本絵画名作101選、日本の美術12周文から雪舟へ、日本美術全集9、原色日本の美術11、日本美術絵画全集・第7巻、狩野永徳と京狩野、狩野派決定版、室町時代の狩野派、日本画家人名事典