土佐光茂「車争図屏風」右隻(部分)京都・仁和寺蔵
土佐光信の後継者・土佐光茂(1496?-不明)は、戦国期の画壇において独自の画風に到達し、父光信とは異なる古典回帰を思わせる濃麗な彩色を身上とした。光茂の描いた作品は近世以降のやまと絵の図様として多くの作品に影響を与え、規範として重視されたことが知られている。
京都・仁和寺に伝わる「車争図屏風」は、『源氏物語』第9帖「葵」のいわゆる「車争い」と通称されるくだりを絵画化したもので、掲載の右隻に描かれているのは、朱雀帝の即位に伴って新たに選ばれた斎院が御禊に参る行列で、光源氏が宣旨を受けて特別に供奉することになったため、人々が見物に押し寄せ、往来は期待に満ちた華やかな雰囲気に包まれている。
光茂には光元という息子があり、絵師としての活動もみられるが、永禄12年に足利義昭の軍に従い戦死してしまう。これにより土佐家の血筋は途絶え、土佐家は世襲の宮廷絵所預職とともに領地も失う。光茂の弟子と考えられる光吉やその子・光則は京都から堺に拠点を移し、堺の富商のもとに蟄居して源氏物語などの細密画をもっぱら描いていた。土佐家が絵所預に復帰するのは17世紀半ば、土佐光起の頃となる。
土佐光茂(1496?-不明)とさ・みつもち
明応5年頃生まれ。土佐光信の子。大永3年に光信の跡を継ぎ、絵所預に補任された。作品は、享禄4年の「当麻寺縁起絵巻」(奈良・当麻寺蔵)、大永3年足利義晴奉納の「桑実寺縁起絵巻」(滋賀・桑実寺蔵)などがある。
土佐光元(1530-1569)とさ・みつもと
享禄3年生まれ。土佐光茂の長男。後継者と目されていたが、織田信長に仕え、永禄12年但馬攻めに出陣し戦死した。光元の真筆はほとんど確認されていないが、永禄3年制作の「紫式部石山詣図」が光元の作品とされる。永禄12年、40歳で死去した。
京都(46)-画人伝・INDEX
文献:室町時代のやまと絵、やまと絵日本絵画の原点、日本美術全集9、もっと知りたいやまと絵、原色日本の美術27在外美術(絵画)、日本画家人名事典