江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

土佐派と唯一拮抗する活動を展開した粟田口隆光

粟田口隆光「誉田宗廟縁起絵巻」上段第1段 重文 大阪・誉田八幡宮蔵

大阪・誉田八幡宮に伝わる「誉田宗廟縁起絵巻」は、永享5年(1433)、6代将軍・足利義教が奉納した絵巻で、全3巻に応神天皇の崩御・葬送と陵墓建設、欽明天皇の勅定により山陵のかたわらに宝殿を建立し八幡大菩薩を勧請したことなどが描かれている。絵師としては、様式の特徴から清凉寺「融通念仏縁起絵巻」の制作にも参加した粟田口隆光が有力で、「春日権現験記絵巻」を描いた高階隆兼の描法を意識したと思われる。

粟田口隆光(不明-不明)は、京都東山の粟田口にある青蓮院の周辺で活動していた粟田口派の絵師で、土佐派の勢力が大きく伸長した15世紀前半、彼らと唯一拮抗する活動を展開していた。主として仏画を制作していた粟田口派は、南北朝時代からの活動が確認でき、室町時代前期には土佐派に匹敵する絵師集団を形成していた。

粟田口隆光(不明-不明)あわたぐち・たかみつ(りゅうこう)
粟田口派の絵師。俗名は以盛。京都東山の粟田口に住んでいた。応永21年に成立した清凉寺「融通念仏縁起絵巻」の制作に参加。応永26年銘のある石川・願成寺本「親鸞聖人伝絵」のほか、「誉田宗廟縁起絵巻」「神功皇后縁起絵巻」も隆光周辺で描かれたと思われる。応永34年民部卿法眼に叙せられた。「石山寺縁起絵巻」の第5巻を描いたとも伝わっている。

京都(40)-画人伝・INDEX

文献:室町時代のやまと絵、日本美術全集9、日本画家人名事典