伝藤原光重「浜松図屏風」(部分)重文
土佐派の実質的な祖とされる藤原行光の次世代にあたるのが、藤原光益(六角寂済)と藤原光重(不明-不明)で、いずれも行光の子と推定されている。先に絵所預に就任した光益が兄と思われるが、光重が行光の工房を継承し、光益は京都に新たに工房を構え、六角絵所と称した。
光重は、寂済の後に絵所預に就いたと考えられているが、清凉寺本「融通念仏縁起絵巻」制作に絵師として名を連ねていないことから、応永24年頃にはすでに没していたとみられる。確実な作例は報告されていないが、「浜松図屏風」「菊泉図」が光重筆として伝わっている。
藤原光重(不明-不明)ふじわら・の・みつしげ
藤原行光の子で、六角寂済の弟とみられる。正五位越前守に叙せられ、元中6年に父行光とともに畠山基国の頼みに応じて八尾、飯盛、竜泉等の城を描いたという記録がある。元中7年絵所預となり、摂津中村を領知したと土佐系図にある。
京都(37)-画人伝・INDEX
文献:室町時代のやまと絵、日本画家人名事典