田村宗立「東山雪景図」神奈川県立歴史博物館蔵
田村宗立(1846-1918)は、丹波国園部(現在の京都府南丹市園部町)近くに生まれ、はじめ南画を学び、その後、六角堂能満院の大願和尚のもとで仏画を学んだ。安政5年、世の中には本物そっくりに見える絵があると聞き、独自に研究をはじめ、実物写生をするなかで独自の陰影表現を試みるようになった。
慶応元年になって写真の存在を知り、その後油絵を知った。その描法を学ぶため明治3年に京都府中学校に入り英語を学び、粟田口病院に通訳兼画工として勤め、解剖図や教材用掛図を描く仕事をした。この病院でドイツ人医師・ユンケル・フォン・ランゲックに油絵の手ほどきを受け、さらに横浜に行きチャールズ・ワーグマンや二代玄々堂松田緑山のもとで油彩画、銅版画、石版画を学んだ。
京都に戻ると、身近の京都東山の景色や風俗を主題に、日本絵画に西洋画法を取り入れた新絵画の創造を試み、京都博覧会や内国勧業博覧会などに積極的に出品した。明治15年の第11回京都博覧会では2日間ながら田村宗立油画展が開催されている。
明治14年、京都府画学校西宗(西洋画科)の教員となり、明治22年の同校退職後は、私塾「明治画学館」を設立し、後進の指導にあたった。明治34年の関西美術会設立に際しては、京都側の委員として加わり、関西洋画の素地を築いた。
田村宗立(1846-1918)たむら・そうりゅう
弘化3年丹波国園部(現在の京都府南丹市園部町)生まれ。別名に大狂、月樵がある。安政2年大雅堂清亮に南画を、ついで真言宗の画僧大願和尚に仏画を学び、僧名を宗立とした。文久から元治頃独自に陰影表現を行ない、幕末には写真機を持っていたという。明治3年京都府中学校で英語を学び、横浜でワーグマンに油絵を学んだ。明治10年第1回内国勧業博覧会で褒状、以後も同2回展、京都博覧会などに出品した。明治13年京都府画学校開校に際して西宗出仕、翌年教員となった。明治22年同校を辞して明治画学館を開設、明治34年関西美術会の結成に参加した。晩年は日本画も描いた。大正7年、73歳で死去した。
京都(154)-画人伝・INDEX
文献:浅井忠と関西美術院展、明治の洋画、洋画家たちの明治、日本絵画・20世紀の草創、日本美術全集16、日本画家人名事典、京都と近代美術、近代京都日本画史