村瀬玉田「波に雁図」
村瀬玉田(1852-1917)は、京都上京区に生まれ、11歳の時に村瀬双石の門に入り四条派の画法を学び、15歳の時に双石の養子となり村瀬姓を継いだ。当時は景文門下の横山清暉、塩川文麟、岸連山、中島来章らの全盛で、玉田は彼らにも私淑したという。また、漢学を宮原節庵に、和歌は渡忠秋に学んだ。
明治13年、京都府画学校に出仕し、そのかたわら多くの門下生を育成した。明治17年の第2回内国絵画共進会の審査員に推挙されたのを機に東京に移住し、以後、日本美術協会を中心に活動し、各種博覧会で受賞を重ね、東京画壇での地位を確立した。
皇室の御用も多く手掛け、明治宮殿の杉戸絵や千種の間の格天井の綴錦の下絵を担当したほか、英照皇太后の葉山行啓に随行し現地で写生を行ない、晩年には昭憲皇太后に御大喪絵巻の揮毫を拝命するなどした。「波に雁図」(掲載作品)は、明治42年に昭憲皇太后より明治天皇へ贈られたとの伝来がある。
村瀬玉田(1852-1917)むらせ・ぎょくでん
嘉永5年京都生まれ。本姓は榎、名は徳温、通称は清次郎。別号に彩雲亭がある。四条派の村瀬双石に師事し、のちに養子となった。漢学を宮原節庵、和歌を渡忠秋に学んだ。明治13年京都府画学校出仕、翌年内国勧業博覧会で妙技3等賞を受賞。明治15年第1回内国絵画共進会で銅賞、明治16年京都から東京に移住。明治17年第2回内国絵画共進会で銅賞を受賞。明治33年のパリ万博、明治37年のセントルイス万博、明治43年の日英博覧会など国外博覧会にも出品した。山水・花鳥画を得意とし、皇室御用画も多く手掛けた。大正6年、66歳で死去した。
村瀬双石(1822-1877)むらせ・そうせき
文政5年生まれ。京都の人。村瀬五猪の子。横山清暉の門人。名は魚、通称は宗太郎。別号に彩雲がある。明治10年、56歳で死去した。
京都(149)-画人伝・INDEX
文献:日本美術院百年史1巻上、明治美術の一断面、描き継ぐ日本美-円山派の伝統と発展、円山応挙から近代京都画壇、日本画家人名事典