江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

蕪村・応挙に学び後に四条派の祖となった呉春

呉春「白梅図屏風」(部分)重文 逸翁美術館蔵

呉春(1752-1811)は、京都で金座の役人を代々継いだ松村家の長男として生まれた。画ははじめ望月玉蟾門下の大西酔月に学び、20歳頃から与謝蕪村に師事し、松村月渓と称した。蕪村のもとで俳諧を学ぶかたわら、蕪村風の南画や俳画を描き、師の蕪村から「画は愚老も恐るるばかりの若者」と評された。

天明元年、30歳の時、妻と父を立て続けに亡くし、蕪村の勧めもあり京都を離れ、蕪村門下の俳人が多く住んでいた摂津池田(現在の大阪府池田市)に移り住んだ。翌天明2年、池田の地で新年を迎えたことから、池田の古名「呉服里」と「初春」を組み合わせ、姓名を「呉春」と改め、剃髪した。

寛政元年、8年間の池田滞在を経て京都に戻った。師の蕪村はすでに没していたため、帰京後は円山応挙と親交を結び、その写生画法を学んだ。また、応挙に引き立てられるなどして、しばしば御所の画用を担当した。妙法院真仁法親王のサロンにも参加し、詩人、学者、僧侶など京都の教養人たちと交流した。

晩年は病気がちだったようで、墨画の小品に優品を残している。呉春は人づきあいがよかったとみえ、酒食の交遊も併せ、文化芸術を好む人々たちと広く交流した。こうした呉春の人柄や画風を慕う画家たちが呉春の住んでいた四条辺りに集まり、やがて四条派が形成されていった。

呉春(1752-1811)ごしゅん
宝暦2年京都生まれ。金座年寄役・松村匡程の長男。名は豊昌、字は祐甫、のちに伯望。通称は文蔵。別号に可転、允白、存允白、孫石などがある。俳号は月渓、軒号は三菓堂。はじめ大西酔月に画を学び、のちに与謝蕪村に俳諧と画を学んだ。天明元年から8年間摂津池田に滞在し、呉春と改名した。蕪村没後は円山応挙と親交を結び、南画と写生画を融合した独自の画風を確立した。呉春及びその門下が四条周辺に住んでいたことから四条派と呼ばれた。文化8年、60歳で死去した。

京都(116)-画人伝・INDEX

文献:円山応挙から近代京都画壇、京都画壇の一九世紀(2)、日本絵画名作101選、日本美術全集14、美のワンダーランド十五人の京絵師、江戸の花鳥画譜、江戸絵画入門、江戸の美術大図鑑