江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

墨蘭の名手と謳われた二画僧・鉄舟と梵芳

左:鉄舟徳済「蘭竹図」、右:玉畹梵芳「蘭蕙同芳図」重文 東京国立博物館蔵

蘭の花は、山中にひっそりと咲く高貴な花として隠逸や優れた人徳の象徴とされ、中国・北宋時代末期から文人画の画題として好まれるようになり、南宋から元時代にかけて広く流行した。当時の中国の禅僧たちのなかにも墨蘭図を手掛けるものが出て、特に蘇州の高僧・雪窓普明は墨蘭の名手として名高く、日本の禅僧たちにも影響を与えた。

鉄舟徳済(不明-1366)は、下野(栃木県)の人で、中国に渡って古林清茂らに師事し、帰国後は夢窓疎石の法を嗣ぎ、京都五山・万寿寺の住持に就任した。中国では雪窓普明と直接の面識があったと思われ、墨蘭図の描き方についても教えを受けた可能性がある。鉄舟と同様に雪窓に倣って墨蘭図を描いた日本からの入元僧として、頂雲霊峰や霊江らが知られる。

玉畹梵芳(1348?-1420?)は、京都五山の建仁寺、南禅寺の住持を歴任した禅僧で、文人風の生活を好み、自由な筆遣いの墨蘭を得意とした。蘭を描くときは「一点の芳心あるに縁り、青松百尺の姿を羨まず(ほかにない芳香があるから、背の高い松をうらやまない)」という気持ちを込め、禅僧としての自戒と理想を、気品のある蘭の姿に託したという。

鉄舟徳済(不明-1366)てっしゅう・とくさい
室町初期の臨済宗の禅僧。下野の人。法諱は徳済、道号は鉄舟。入元して江西省廬山の円通寺で竺田悟心に、同じく廬山の開先華蔵寺で古智慶哲に、江蘇省南京の保寧寺で古林清茂に、浙江省寧波の阿育王寺で月江正印に学んだ。康永3年頃に帰国し、阿波の補陀山に住んだのち、京都・天龍寺の夢窓疎石の法を嗣ぎ、康安2年に京都五山・万寿寺29世となり、のちに嵯峨竜光院に退居した。書画をよくし、墨蘭図 を得意とした。著作に『語録』『閻浮集』がある。弟子に画僧・愚谿右慧がいる。正平21年死去した。

玉畹梵芳(1348?-1420?)ぎょくえん・ぼんぽう
室町前期の臨済宗の禅僧。春屋妙葩の法を嗣ぎ、義堂周信に詩文を学んだ。京都五山の建仁寺、南禅寺の住持をつとめた。将軍・足利義持に重用されたがのちに離反し、怒りにふれて近江に隠棲示寂した。隠逸を好んだ文人的性格で風月を友とし、鉄舟徳済とともに中国元代の雪窓風の墨蘭図を得意とした。詩画軸への著賛をはじめ「蘭石図」など多くの作品が現存する。

京都(10)-画人伝・INDEX

文献:本朝画史、日本絵画名作101選、日本美術全集9