黙庵「四睡図」重文 前田育徳会蔵
可翁とともに日本の初期水墨画を代表する画人として、鎌倉末期に中国(元)に渡り、彼の地で客死した禅僧・黙庵(不明-不明)がいる。その画才は、中国の一流絵師にも劣らないといわれ、牧谿の再来とも称されたという。
中国で没し日本に戻らなかったこともあり、黙庵は長く中国の禅僧と誤解されていたが、大正時代に五山文学を代表する禅僧・義堂周信の日記『空華日用工夫集』の逸文が京都・建仁寺の塔頭・両足院で発見され、その中に黙庵と同時期に入元した禅僧・鈍夫全快が義堂に語った黙庵の略歴が記されていたことから、黙庵は入元した日本僧であることが判明した。
その逸文によると、黙庵の法諱ははじめ是一といい、後に霊淵と改められた。入元して本覚寺の了庵清欲のもとで蔵主となり、至正5年前後に中国で客死した。また、黙庵が南宋の画僧・牧谿が中興した西湖の六通寺を訪れた際には「牧谿の再来」と称され、院主から牧谿の印を与えられたとも記されている。
また、元の高僧・楚石梵琦の『楚石梵琦禅師語録』には、黙庵が描いた「二十二祖像」に対する賛が残されているが、このことは黙庵の画業がきわめて本格的であり、なかば職業的なものであったろうことを示している。
掲載の「四睡図」は、人と動物の四者が一緒に眠る姿を描いた禅画で、四者の眠りは悟りの境地を表している。その四者とは、中国仏教の聖地・天台山国清寺に住んだとされる豊干禅師と彼が手なずけた虎、そして豊干の弟子とされる寒山と拾得で、豊干禅師を囲むようにして安らかに眠っている。
黙庵(不明-不明)もくあん
鎌倉末期から南北朝期の画僧。諱は霊淵。嘉暦年間に元に渡り遊学したと思われる。水墨画にすぐれ牧谿の再来との評があり、月江正印・了庵清欲ら元の高僧の賛のある作品が日本に逆輸入され、宋元の画家と誤解されていたが、その後入元した日本僧であることが判明した。代表作に「布袋図」「四睡図」「白衣観音図」がある。至正5年頃に中国(元)で客死した。
京都(09)-画人伝・INDEX
文献:日本の美術12 周文から雪舟へ、日本美術全集9