江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

日本の画壇に新風をふきこんだ野田英夫

野田英夫「学園生活」(ピードモント・ハイスクール壁画 部分)

日系移民の子として米国に生まれた野田英夫(1908-1939)は、30歳で早世し、わずか10年たらずの画業だったが、日本の画壇に初めて登場した際には、そのアメリカ的、社会派的な特異な画風で、ヨーロッパ志向が強かった当時の日本画壇に新風を吹き込んだ。また野田は、壁画制作にみられるように、絵画を個人のものから大衆の共有財産として位置づける試みをみせ、芸術における新しい価値観を提示してみせた。

野田英夫(米国名ベンジャミン・ノダ)は、祖国日本で教育を受けさせたいという両親の意向で、3歳から18歳までを、父の故郷である熊本で過ごした。アメリカ国籍でありながら、日本の精神風土のなかで精神形成の時期を過ごしたことは、のちの制作活動に少なからぬ影響を与えたかもしれない。中学卒業後は単身渡米し、カリフォルニア美術専門学校に入学、2年で同校を中退して、ニューヨーク北部のウッドストック芸術村に住み、アート・ステューデンツ・リーグでディエゴ・リベラの壁画制作の助手をつとめた。以後、壁画、テンペラ画の研究を続けるようになった。

昭和9年に、ホイットニー美術館の全米美術展に出品したのちに帰国、翌10年、銀座の画廊で初個展を開催し、二科展にも出品した。翌年一時ニューヨークに戻り、母校ピードモント・ハイスクールの壁画を制作、ヨーロッパを経て帰国し、東京豊島区東長崎町の貸アトリエに住み、短期間だったが池袋モンパルナスの住民として過ごした。同年新制作派協会に出品、会員に迎えられた。昭和13年、銀座の日動画廊で個展を開催したのち、長野県野尻湖半を旅行、この頃から体調に変化が現われて入院、翌年1月30歳で早世した。

野田英夫(1908-1939)
明治41年カリフォルニア州サンタクララ生まれ。明治44年、教育を受けるために両親に連れられて帰国、18歳まで熊本で過ごした。大正15年、中学校卒業後に単身渡米、ピードモント・ハイスクールに入学。昭和4年に同校を卒業して、カリフォルニア美術専門学校に入学した。昭和6年同校を中退し、アーノルド・ブランチをたよってニューヨークに行き、ブランチのアトリエに奇寓したのち、ウッドストック芸術村に友人と3人で共同生活を送り、ここでアート・ステューデンツ・リーグのサマー・スクールに通った。昭和9年、26歳の時に帰国、東京中野区のアパート「清風荘」に居住し、銀座の青樹社画廊で初の個展を開催、二科展に出品した。同年、銀座のバー「コットンクラブ」の壁画を寺田竹雄と共同で制作した。昭和11年、28歳の時にニューヨークに戻り、翌年母校のピードモント・ハイスクールにフレスコ壁画《学園生活》を制作。同年ヨーロッパを経て、帰国、豊島区東長崎町の貸アトリエに居住、新制作派展に出品し、会員に迎えられた。昭和13年、銀座・日動画廊で個展、その後体調を崩し同年12月に入院、翌14年、30歳で死去した。

熊本(21)-画人伝・INDEX

文献:熊本県の美術熊本の近代洋画