江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

熊本洋画の先駆的人物・光永眠雷が描いた西郷隆盛

光永眠雷「西郷隆盛肖像」

熊本洋画の黎明期をになった画家としては、明治12年に上京し、イタリア人画家・キヨッソーネのもとで油絵を学んだ光永眠雷(1867-1928)が挙げられる。眠雷は東京で油絵を学んだのち、長崎、鹿児島に遊学、その後再び上京して代表作「西郷隆盛肖像」を描き、話題になった。

眠雷が「西郷隆盛肖像」を描くきっかけになったのは、洋画の師であるキヨッソーネの西郷像に対しての反発からきている。キヨッソーネの西郷像は、上野にある西郷の銅像の原型になったものとされるが、眠雷は「西洋人たる南洲翁(隆盛の雅号)とでもいふべき画であって、日本人たる南洲翁の肖像では無かった」と批判している。その後、明治37年に上京し、政界を引退していた板垣退助を訪問、板垣の勧めを受ける形で西郷の肖像を描くようになった。

西郷像に関しては、それまでにも実際の西郷には似ていないのではないかと説く研究者もいたが、上野の西郷隆盛銅像の除幕式に出席していたイト夫人が「アラヨウ、宿んしはこげんなお人じゃなかったこてえ(うちの人はこんな人ではなかったのに)」と叫んだことが決定的となり、疑惑は深まっていった。

そんななか、明治40年、眠雷が描いた西郷隆盛肖像は、板垣や西郷家、関係者から「最も能く真を得たり」と評価され、西郷の「真像」として認められたという。そして明治43年、日韓合併を記念し、東京神田今川橋青雲堂から眠雷西郷像が、印刷・発行されるに至ったのである。

また、眠雷は肖像画を描く際の筆の長さにこだわっており、のちに自ら創案した槍のような七尺の長筆をもって人物、静物などを描いたとされる。その事に関して、明治42年発行の『東京エコー』では「洋画はもと六尺以上の距離を以て見るべきものなれば之を描く際にも之を見ると同様の距離を以て画くでなければ其欠点を完全に修補することの出来ないのは当然の理である」と語り、筆の長さに対する執着をみせている。

光永眠雷(1867-1928)
慶応2年生まれ。明治12年上京し、翌年東京工部大学校教授のジケローに入門し、洋画を学んだ。その後、明治17年に印刷局御雇のイタリア人画家キヨッソーネのもとで鉛筆デッサンや油絵を学んだ。また、長崎、鹿児島にも遊学、この間、長崎では洋画家の益田暁園に、熊本では当時第五高等学校教授だった笠井直らに学んだ。その後再び上京して、代表作とされる「西郷隆盛肖像」を制作、話題になった。のちに自ら創案した槍のような七尺の長筆をもって人物、静物などを描いたとされる。眠雷の作品として「竹崎茶屋」「竹崎順子」の肖像画が残っている。昭和3年、62歳で死去した。

熊本(17)-画人伝・INDEX

文献:熊本県の美術熊本の近代洋画、中京大学文学会論叢内論文 光永眠雷「西郷隆盛肖像」の成立(中元崇智)