江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

矢野派の全盛・五代矢野良勝と衛藤良行

矢野良勝「波濤図屏風」(部分)

四代雪叟によって再興された矢野派は、次の五代良勝と雪叟の門人である衛藤良行らの世代に全盛を迎えた。良勝や良行らは、雪叟によって回帰された雪舟風の筆法を修得し、それを基礎として実景や動植物を写生、さらに他流派や中国の古画を学んだり、西洋遠近法を取り入れるなどして、画域を広げて多様な作品を描いた。矢野派の作品が最も多く残っているのもこの時期である。筑後柳川藩立花家の絵師・北嶋勝永ら、肥後以外からの入門者があったのも矢野派の名声が高くなっていたことを物語っている。良勝、良行の没後は、六代良敬に引き継がれたが、特にすぐれた作品も見当たらず、矢野派は再び衰退していくことになる。

矢野良勝(1760-1821)
宝暦10年生まれ。矢野派五代。矢野雪叟の子。通称は右膳、号は龍谷、千嶂堂、枕流亭、漱玉庵、雪観斎、桂光楼、水竹居など。藩画府根役。書画や古器玩物及び刀剣の鑑賞を好み、かたわら和歌をたしなみ、また八条宮法王や北島雪山の書を学び、その奥境に至ったという。多くの門人を擁し、矢野家は全盛期を迎え、矢野家中興の祖と称される。文政4年、62歳で死去した。

衛藤良行(1761-1823)
宝暦11年生まれ。通称は源左衛門。号は蟠谷、叢玉亭、蘭叢軒など。藩画府根役。幼いころから矢野家四代雪叟に学び、よくその画風を修得、天明6年に藩絵師となった。寛政3年頃の『領内名勝図巻』の制作では、矢野家五代良勝と全15巻のうち7巻半ずつを分担しているほど、早くからその画技が認められていた。文政6年、63歳で死去した。

衛藤勝夷(1790-1831)
寛政2年生まれ。元は山田慶蔵。号は蟠谷、蘭叢など。はじめ矢野良勝に学び、勝夷と号した。のちに衛藤良行の学び、養子となり、行高と改称。天保2年、42歳で死去した。

矢野良敬(1800-1858)
寛政12年生まれ。矢野家六代。右膳と称し、のちに左膳と称した。号は龍谷、玉壺亭、漱玉堂、萬歳楼、雪濤など。藩画府根役。安政5年、59歳で死去した。

熊本(4)-画人伝・INDEX

文献:肥後の近世絵画、細川藩御用絵師・矢野派、肥後書画名鑑