江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

土佐南画三名家のひとり・古屋竹原と門人

古屋竹原「山水図」

楠瀬大枝門下で、徳弘董斎、橋本小霞とともに南画の三名家と謳われた古屋竹原は、文政から天保にかけて土佐の南画家の中心的存在だった。当時の須崎では、南画をもって聞こえた医者の古屋竹原に、書家の下元西洲と僧の智隆を加えて三先哲と称した。竹原は文政5年に大坂に永住することを決意したが、須崎で船便を待っていたところ、門人らに引き留められたため思いとどまり、以後須崎に住んだという。門人としては、子の古屋紫竹、杉本竹厓、古屋紫竹の3兄弟をはじめ、今村楮堂、池淀水、岡村竹條、小村桃里、片岡梅園、江口清英、鉛屋雲石らがいる。

古屋竹原(1788-1861)
天明8年高岡郡中土佐町大野見村生まれ。幼名は平次郎、通称は尉助。別号に顧嶽、十畝園主、梅里園などがある。市川芳野の門に入り、漢詩、絵画の手ほどきを受けた。須崎の生まれではないが、縁あって須崎に住んだ。享和元年江戸に出て、広瀬臺山、僧・光明寺雲室に画を学んだ。文化2年に帰郷し、文化4年には大坂に出て医術を学び、3年で帰郷して開業した。文化7年に再び大坂に出て、儒学・医術を学んで帰郷後、漢学塾を開いて多くの門人を育てた。文久元年、74歳で死去した。

今村楮堂(1798-1868)
寛政10年生まれ。通称は嘉伝次、名は嘉。はじめ楠瀬大枝に学び、のちに古屋竹原に師事した。徳弘董斎、橋本小霞とも交流があった。慶応4年、71歳で死去した。

岡村竹條(1817-1880)
文化14年生まれ。岡村久吉の二男。通称は久太郎。古屋竹原に師事し、師の号の一字を受け竹條と号した。画には多く「伴雲楼竹條」と落款した。四君子、花鳥画を得意とした。明治13年、74歳で死去した。

小村桃里(1820-1891)
文政3年生まれ。名は好古、字は信郷、通称は虎吉、維新後は好古と称した。洞里とも号した。高岡郡佐川町の人。父は小村恵助。古屋竹原に師事し、竹原没後は狩野派の画を弘瀬洞意に学び洞里と改号した。晩年は名草逸峰の門に入り、また桃里と号した。明治17年には内国絵画共進会に出品。明治24年、72歳で死去した。

古屋紫竹(1832-1896)
天保3年須崎生まれ。名は薫、姓は菅原。通称ははじめ代吉、のちに造作と改めた。字は南風。はじめ竹軒と号し、のちに紫竹と改号した。別号に鯨庵がある。古屋竹原の長男。画を父に学び、梅竹山水を得意とした。晩年には京坂、四国、九州などを遊歴した。明治29年、65歳で死去した。

杉本竹厓(1838-1896)
天保9年生まれ。古屋竹原の二男。3歳の時に外祖父で野見浦に住んでいた杉本丹斎の養子となった。名は培。医術を華岡青洲に、画を父の竹原に学んだ。のちに母の生家・杉本友諒の家を継ぎ須崎に住んだ。晩年には東京、大阪を遊歴した。明治29年、59歳で死去した。

古屋竹洲(1840-1877)
天保11年生まれ。通称は作郎。古屋竹原の三男。父に画を学び、墨竹を得意とした。明治10年、38歳で病死した。

高知(13)画人伝・INDEX

文献:土佐画人伝坂本龍馬の時代 幕末明治の土佐の絵師たち近世土佐の美術、海南先哲画人を語る