柳本洞素(1838-1894)は弘瀬洞意(絵金)に学んだ後、江戸に出て駿河台狩野七代・狩野洞白陳信の門に入り、安政4年には土佐藩の御用絵師になった。山内豊範の御居間勤めを明治3年頃までつとめ、以後は町絵師として子の柳本素石、山本昇雲をはじめ、井上素川、石井素堂、稲垣素雪、山本松谷、上森素哲ら多くの門人を育てた。子の素石は四条派の画人として土陽美術会の主要メンバーとして活躍、吉川素竹、石川繁馬、吉岡逸成、谷脇素文、下司凍月、島内松南、上島素水、野村春江らの門人がいる。
柳本洞素(1838-1894)
天保9年生まれ。名は陳春、のちに圭吾と改めた。父は要蔵。幼いころから画をたしなみ、弘瀬洞意に学び、嘉永3年には駿河台狩野七代・狩野洞白陳信に入門、安政4年には20歳にして山内家の絵師に抱えられた。現在の香我美町西川の出身で、洞素の作品はこの地に多く伝わっている。明治27年、57歳で死去した。
井上素川(1864-1926)
元治元年生まれ。長岡郡三和村里改田字立石の人。通称は清、洞水陳政。別号に長泉堂がある。幼いころから画が得意で独学で描き、やや長じて柳本洞素に師事した。画業のほかには俳句を田所水哉に学び、俳号を象水と称した。大正15年、63歳で死去した。
柳本素石(1868-1918)
明治元年高知市生まれ。本名は繁馬。柳本洞素の子。幼いころから父の指導で画を学び、明治22年に京都に出て四条派の国分文友に師事した。松村景文派の画法を学び、諸派の研究につとめた。明治25年に帰郷、明治27年の父の死去以来は郷里を出ず、土佐に四条派を広めた。南部錦溪、河野棹舟らと土佐美術協会を創立、別役春田を会長に美術振興につとめた。明治44年、土陽美術会高知支部発足に際し幹事となり、徒弟的風習を廃した開放的な養成を実施、写実的な近代画を目指す谷脇素文、島内松南、下司凍月、野村春江らが入門した。大正7年、51歳で死去した。
石井素堂(1873-1920)
明治6年高知市浦戸町生まれ。名は徳、字は子英、通称は徳次郎。別号に鯉堂、蘇堂、蘇童、醒泉亭がある。13歳の時に柳本洞素の門に入り狩野派を学び、のちに大阪に出て博物館陳列画を臨写して2年間自修した。鯉魚を専門に描いた。いったん帰郷し、明治27年に東京に出て川端玉章について学んだ。明治34年には京都に行き今尾景年の門に入った。大正9年、48歳で死去した。
吉川素竹(不明-不明)
絵金の弟子だった吉川金太郎の孫。父の馬太郎は紺屋。幼いころから画を好み、祖父の友人・彼末堤馬に学んだのち、柳本素石に師事して「素竹」の号をもらった。紺屋のかたわら日本画を描き、土陽美術会などに出品した。
吉岡逸成(1872-1933)
明治5年生まれ。明治30年高知師範学校卒業。古屋紫竹に南画を、柳本素石に四条派を学んだ。上京後は下村観山に師事し、また梶田半古にも学んだとされる。高知市立第四小学校などの小学校に勤務した。壬生水石の顕彰に尽力し、『壬生水石印譜集』を刊行した。
野村春江(1889-1936)
明治22年高知市生まれ。本名は直政。柳本素石に四条派を学んだ。明治43年林区署の雇員をつとめ、製図などを描いていた。昭和11年には勤続26年の農林大臣表彰を受けている。龍や鷹、鯉を得意とした。土陽美術会にも参加し、島内松南や下司凍月らと親しく交友した。昭和11年、48歳で死去した。
高知(8)-画人伝・INDEX
文献:土佐画人伝、近世土佐の美術、坂本龍馬の時代 幕末明治の土佐の絵師たち、海南先哲画人を語る