江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

河鍋暁斎の師・前村洞和と土佐の狩野派

前村洞和「天女図」

江戸で仕えた土佐藩の絵師のうち、前村洞和と荒木寛畝は土佐の生まれではない。前村洞和(不明-1841)は、江戸に生まれ、駿河台狩野で学び江戸土佐藩の御用絵師をつとめた。江戸で洞和に学んだ土佐の画人としては、池添楊斎、弘瀬洞意(絵金)、小松洞玉らがいる。さらに洞和の子・前村洞泉は土佐で活躍し、門人には、水口温清堂、足達石泉、野村淡泉、北村幽林斎らがいる。土佐の人ではないが、洞和の晩年の門人に河鍋暁斎がいる。洞和は8歳で入門した暁斎の画才を愛し、「画鬼」と呼んでかわいがっていたが、暁斎が11歳の時に病を得て没した。暁斎は素行に難があったが、恩義には厚く、病床にあった洞和を絶えず見舞い、没後は洞和の肖像を描いて掛け軸を作り、忌日ごとに茶湯を供えた。さらに面打師の出目源助に頼んで師の肖像を彫刻してもらい、仏壇に入れて朝夕礼拝したという。

前村洞和(不明-1841)
江戸に生まれ、本郷に住んでいた。名は愛徳。別号に一楽斎、洞和愛徳がある。幼いころから画を好んだが、家が貧しく画を学ぶ余裕はなかった。父親と引火奴を売り歩いて生活する毎日だったが、駿河台狩野家の前を通るたびに門人たちの学ぶ姿を見ていた。ある時、その様子を見た駿河台狩野家五代・狩野洞白愛信が洞和に筆を与えたところ、学んでもいないのに非凡な才能を発揮したという。その後入門を許され「洞和」の名を拝領、推挙されて江戸土佐藩の御用絵師となった。天保12年死去した。

前村洞泉(不明-不明)
元の名は前田泉太郎。土佐藩御用絵師。前村洞和の門人で前村の姓を継ぎ、土佐で活躍した。洞泉知足、または知義、江隣斎と称した。弘瀬洞意の兄弟子にあたる。河田小龍とも親交があり、門人も多い。

小松洞玉(1831-1893)
天保2年生まれ。名は徳信。善内と称した。幼いころから画を好み、江戸に出て前村洞和に狩野派を学び帰郷、出任して牢番役を勤めた。晩年は画を専業とした。明治26年、63歳で死去した。

水口温清堂(1833-1909)
天保4年生まれ。本名は水口千代治。水口助八の子。土佐郡下知村農人町に住んでいた。15歳の時に土方洞甫に狩野派を学び、嘉永3年師の後を継いで山内家の絵師をつとめ、師の没後は前村洞泉の門に入った。明治42年、77歳で死去した。

足達石泉「鷹図」

足達石泉(1836-1923)
天保7年生まれ。本名は覚蔵、字は子貞。別号に小渓がある。11歳の時に前村洞泉に師事して狩野派を学んだ。明治17年には内国絵画共進会で2等賞を受け、明治19年の東洋絵画共進会でも3等の褒状を受けた。晩年は土陽美術会高知支部にも参加して、当時の高知における狩野派の主導者として知られた。大正12年、88歳で死去した。

野村淡泉(1838-1878)
天保9年生まれ。名は知誠、通称は野村修齋。吾川郡弘岡上の村百十二番屋敷平民医師。前村洞泉に狩野派を学び、才能があったが、明治11年、44歳で死去した。

北村幽林斎(1840-1887)
天保11年生まれ。通称は猪久治。家は代々土佐郡久萬村初月村東久万に住み紺屋を営んでいた。嘉永6年、14歳にして前村洞泉の門に入り狩野派の画を学んだ。明治20年、48歳で死去した。

高知(3)画人伝・INDEX

文献:土佐画人伝近世土佐の美術、海南先哲画人を語る、高知県立美術館館蔵品目録