江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

日本近代洋画の牽引者・藤島武二

藤島武二「蒙古の日の出」鹿児島県歴史資料センター黎明館蔵

明治31年、東京美術学校に西洋画科が新設され、黒田清輝(1866-1924)が初代教授に就任した際、黒田が助教授に推薦したのは、三重県の尋常中学で教師をしていた藤島武二(1867-1943)だった。藤島を抜擢した理由について黒田は、同郷のよしみなどではなく「周囲でもっとも絵がうまかったから」と語っている。その頃の藤島は、白馬会の展覧会に当時の浪漫主義的な風潮を反映する作品を発表し注目されていた。

藤島は黒田の後継者のような位置関係に思えるが、じつは二人は年齢が一つしか違わない同世代の画家である。ただ、黒田の生存中はその陰に隠れ、藤島が存在感をみせるのは黒田没後のことである。また、藤島は留学も遅く、ようやく渡欧が実現したのは黒田に遅れること約20年後のことだった。しかし、むしろそれが幸いし、藤島はヨーロッパ絵画の伝統を吸収するとともに、20世紀の新しい絵画運動の息吹を肌で感じることができたともいえる。

帰国後は、イタリア文芸復興期の巨匠の作品などに学んだ経験に、青年期に培った日本画の素養を生かし、東洋的人物の名作を次々と生み出し、一貫して絵画における装飾性を追求し続けた。そんな東洋的美人画に熱中していた藤島武二が、新たなテーマを追い求めるようになるのは、昭和3年、昭和天皇の即位を祝し、学問所を飾る油彩画の制作を依頼され、テーマを「旭日」に決めてからである。

それから10年近く、「旭日」を描くために、理想の朝日を求めて国内はもとよりモンゴルにまで写生に行き、旅を続けた。そして、71歳の時、ついに内モンゴル・ドロンノールの砂漠でイメージした理想の朝日と出合うことができたのである。「蒙古の日の出」(掲載作品)は、御物「旭日照六合」の習作のなかの1点だが、装飾的かつ雄大な作風を目指した藤島の晩年の到達点といえる。

藤島武二(1867-1943)
慶応3年鹿児島市生まれ。初期の7年間は四条派を学び、のちに洋画に転向した。明治29東京美術学校西洋画科助教授になった。この頃に明治浪漫主義風の「天平の面影」を制作。明治38年から4年間、ヨーロッパ留学。帰国後は東京美術学校教授に就任した。大正13年からは主に横顔の東洋美人画を描き、昭和3年から10年間は追求し続けた旭日風景画が追い求めた。東京美術学校で約50年もの長い間後進の指導にあたった。昭和9年帝室技芸員。昭和12には横山大観らとともに第1回文化勲章を受章した。昭和18年、75歳で死去した。

参考:UAG美人画研究室(藤島武二)

鹿児島(34)-画人伝・INDEX

文献:鹿児島の美術、黎明館収蔵品選集Ⅰ、美の先人たち 薩摩画壇四百年の流れ、黒田清輝と藤島武二展