江戸幕府や各藩の御用絵師を代々つとめていた狩野派の絵師たちは、江戸時代の終焉とともに職を失い、生活に困窮するものも多く出た。のちに新しい日本画の創造に取り組み、近代日本画創造運動の先駆者となる狩野芳崖も例外ではなく、廃藩後は養蚕や開拓の仕事に従事したが生活は苦しく、住居を転々としながら、当時の人々が好む南画風の作品を描いたり、庄屋や豪農の屋敷の襖や杉戸を描き、絵を米に換えていたという。
そんな芳崖の窮状を救ったのが鹿児島の島津家である。明治12年、芳崖は同門の友人・橋本雅邦の紹介で島津家に雇われ「犬追物図」を制作することになった。この図は、島津家29代忠義が天覧に供した犬追物を忠実に再現したもので、制作には3年の歳月を費やし、その間芳崖は月給20円を支給された。生活が安定した芳崖は画業に専念し、雪舟や牧谿の研究などもすすめ、その後フェノロサや岡倉天心と出会い、新しい日本画の創造に取り組むようになる。
島津家の資料を収蔵している尚古集成館には、江戸時代から明治初頭に制作された「犬追物図」が数点残されている。芳崖が描いた「犬追物図」(掲載作品)もそのひとつで、行事の進行を3場面に分けた三幅形式だったとされるが、現在は一幅残るのみである。本図は史実に基づき正確に写されたものとされ、当主忠義(犬の側の黒馬に騎乗している人物)の射手姿などは同家に残るその時の写真とまったく一致しており、その臨場感あふれる描写は、当時大変な評判になったという。
なお、犬追物とは、騎馬で犬を追い弓で射る武術のことで、鎌倉時代にはじまり、武士の間で盛んに行なわれていたが、応仁の乱以後急速にすたれ、江戸時代以降は犬追物を御家芸とする島津家に伝わるのみとなっていた。犬追物で使われる矢は、犬を殺傷しないように、犬射蟇目という大型の鏑矢が用いられていた。
狩野芳崖(1828-1888)→狩野芳崖へと続く長府狩野派の系譜
文政11年生まれ。長府藩御用絵師・狩野晴皐の長男。本名は幸太郎。初号に松隣、延信、勝海がある。弘化3年頃、木挽町家の狩野勝川院雅信の門人となった。万延元年江戸城大広間の天井画を担当した。明治12年、同門の橋本雅邦の紹介で島津家雇いとなり「犬追物図」などを描いた。以後、フェノロサや岡倉天心と共に新しい日本画の創造に取り組み、東京美術学校設立のために尽力した。明治21年、61歳で死去した。
鹿児島(27)-画人伝・INDEX
文献:尚古集成館、近代日本画の先駆者 狩野芳崖 没後100年記念特別展覧会、薩摩の絵師、美の先人たち 薩摩画壇四百年の流れ、かごしま文化の表情-絵画編