江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

薩摩藩最後の御用絵師・佐多椿斎

佐多椿斎「円窓寿老人図」

佐多椿斎(1817-1891)は薩摩に生まれ、地元の馬場伊歳に師事し狩野派を学んだ。当時の薩摩の絵師の多くが、地元で学んだのち江戸に出て江戸狩野家に入門しているのに対し、椿斎は江戸に出ることはなく薩摩で活動した。かつて薩摩藩十一代藩主・島津斉彬が、椿斎の才能を認め、藩の奥医師格の奥絵師として採用するように家老に申し付けた際、家老は、椿斎が江戸狩野家に学んでいないことを理由に、その資格はないと進言した。しかし、斉彬は「芸をもって採用すべし」と命じ、椿斎は薩摩藩最後の御用絵師のひとりとして活躍することになったという。

椿斎の師である馬場伊歳に学んだ薩摩の絵師は多く、そのほとんどが地元で伊歳に学んだのち、江戸に出て狩野家に入っているが、椿斎のように江戸の狩野家で学んだという記録のない絵師は他に、笹川蘭斎、二木直喜、中島信徴らがいる。

佐多椿斎(1817-1891)
文化14年鹿児島生まれ。上脇音右衛門の子。諱は清重、字は瘤山。旧名は上脇龍淵。初号は蟠雲斎。地元の馬場伊歳に狩野派の絵を学び、のちに画道の功により奥医師格を命じられた。また、伊地知馬翁から俳句を学び、李村、荷舟の俳号がある。子に絵や書をよくした小松甲川がいる。明治24年、75歳で死去した。

笹川蘭斎(1824-1883)
文政7年種子島生まれ。名は満郡、五兵衛といい、のちに伝と改めた。江戸の狩野家に学んだという記録はないが、馬場伊歳と谷山探成に学んで狩野の画法をよくしたと伝わっている。明治16年、60歳で死去した。

二木直喜(1835-不明)
天保6年生まれ。二木清房の子。別号に馨徳堂翠山がある。14歳の時に馬場伊歳に師事した。伊歳門人の中に二木玉圓とあるのは二木直喜のことと考えられる。嘉永2年から鹿児島藩御細工所絵師を命じられ、明治5年に三等教授図画掛、翌年二等教授図画掛、明治8年に三等副教長図画掛、翌年に二等副教長図画掛に、同年三等雇いをもって英語学校掛、準中学校正課時間掛を兼ね、のちに師範校画学伝習方掛などをつとめ、明治10年には鹿児島県雇いになった。明治15年東京水産博覧会に魚類の写生図を出品。明治17年に文部省に図画教育調査所を設けた際、図画取調方として同所に出張した。明治以降も美術教育行政に携わっていたとおもわれる。

中島信徴(1836-1906)
天保7年生まれ。中島定房の子。名は盛太郎、通称は一三。別号に玄春、白圭、雪谿、常盤山人がある。馬場伊歳の門人。同門の森養淳にも学んだ。島津家斎興、斎彬、忠義の三代に仕えた。元治元年島津久光に招かれた武田信充から有識故実を学び、作画に生かした。明治29年病によって職を辞し、晩年は、巨勢金岡、藤原信実の画風を研究した。明治39年、71歳で死去した。

鹿児島(24)-画人伝・INDEX

文献:黎明館収蔵品選集Ⅰ、薩摩の絵師、美の先人たち 薩摩画壇四百年の流れ、薩藩画人伝備考、薩摩の書画人データベース