江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

鍛冶橋狩野家に学んだ薩摩の絵師

谷山探成「寿老人図」鹿児島県歴史資料センター黎明館蔵

江戸後期に鍛冶橋狩野家に入門した薩摩の絵師としては、七代当主・狩野探信守道に谷山探成、児玉探翠、大山等雪が学び、八代当主・狩野探淵守真に大山探賢、園田探浄、樋口探月、樋口淵溪、そして都城出身の長峰探隠が学んだ。

七代当主・狩野探信守道は、木挽町狩野家の狩野晴川院養信らと同じく、よく古画を研究し大和絵に強い関心を示しており、晴川院が中心となって行なわれた江戸城障壁画の制作にも参加している。谷山探成(1807-1879)は探信守道に学んだが、残された作品は墨線を生かした伝統的な狩野派風を示している。「寿老人図」(掲載作品)は、松樹の下に鶴を従えた寿老人を配すという伝統的な構成で、狩野派の画風をよくあらわしている。

谷山探成(1807-1879)
文化4年生まれ。谷山洞龍の子。名は守昭。西田(現在の鹿児島市西田町)に住んでいた。馬場伊歳に学んだのち、江戸で狩野探信守道の門人となった。作品は「寿老人図」「亀甲仙人」「牡丹之図」などが残っている。明治12年、73歳で死去した。

児玉探翠(不明-不明)
狩野探信守道の門人。名は守清、諱は実行。「武者図」が残っている。

大山等雪(不明-1849)
狩野探信守道の門人。名は綱広、通称は勘介。天保11年大竜寺所蔵の秋月等観筆「桂庵玄樹像」を模写したと伝わるが、作品は確認されていない。嘉永2年死去した。

大山探賢(不明-1867)
大山等雪の子。名は守三。馬場伊歳に学んだのち、狩野探淵守真の門人となった。作品は「竜図」「大和武尊像」「花鳥之図」など数点が残っている。慶応3年死去した。

園田探浄(1816-1887)
文化13年生まれ。名は守志。はじめ馬場伊歳に学んだのち、狩野探淵守真の門人となった。大和絵風の作品「春瀑之図」が残っている。明治20年、72歳で死去した。

樋口探月(1822-1896)
文政5年生まれ。名は守保。狩野探淵守真に学んだのち、上総、上野、相模地方を遊歴した。明治元年宮内省に屏風を納めた。明治3年神祇官として出仕、翌年神祇抄録を拝命し、大甞会の際に屏風を納めた。明治5年ウィーン万博に屏風を出品。明治11年には当時13歳の黒田清輝とその姉・千賀子に日本画の初歩を教えた。明治13年宮内省から維新以前の旧儀式取調を命じられる。明治15年内国絵画共進会に出品し褒状を受けた。明治29年、74歳で死去した。

樋口淵溪(1827-不明)
文政10年生まれ。樋口探月の妻、板垣周蔵(号は有隣)の娘。狩野探淵守真に学んだ。

鹿児島(20)-画人伝・INDEX

文献:薩摩の絵師、美の先人たち 薩摩画壇四百年の流れ、かごしま文化の表情-絵画編、薩藩画人伝備考、薩摩の書画人データベース