江戸前期には、薩摩画壇と木挽町狩野家とのつながりは深く、多くの薩摩の絵師が木挽町狩野家で学んだが、木村探元の活躍した江戸中期になると、そのつながりは弱くなっていった。江戸中期の薩摩の絵師の多くが探元に学び、江戸に出る場合でも鍛冶橋狩野家に入門するようになっていったからである。しかし、江戸後期になると、そのつながりは再び深いものになっていった。
薩摩の絵師たちが再び木挽町狩野家に入門するようになるのは、六代目当主・狩野栄川院典信に瀬戸口栄春が学んで以降のことである。そして、七代目当主・狩野養川院惟信に古藤養山、瀬戸口養元、馬場養龍が、八代目当主・狩野伊川院栄信に馬場伊歳が、九代目当主・狩野晴川院養信に古藤養真、小林養建が学んだ。森養淳も狩野晴川院養信の門人だっと考えられている。
瀬戸口栄春(不明-不明)
狩野栄川院典信の門人。別号に永雲、鶴峯舎、典孝がある。子に瀬戸口永雲(不明-不明)がいるが、父から絵を学んだといわれるだけで、詳しい師弟関係は明らかではない。
古藤養山(不明-1846)
狩野養川院惟信の門人。名は惟旭。別号に松雪斎がある。惟信の高弟のひとりで、諸方の古画鑑定を取り次ぎ、師家の家事も預かっていた。『古画備考』には、長屋に別に家を構えて住み、「屋敷奥医師格」と記載されている。惟信の孫・晴川院養信のもとでも働いていたと思われる。弘化3年、70余歳で死去した。
瀬戸口養元(不明-不明)
狩野養川院惟信の門人。名は惟程、のちに麟朝。兄弟子・竹沢養溪のあとを受けて木挽町画所の古画鑑定の取次役となった。しかし、散財による借金がもとで出奔。その後、他の狩野家の弟子となり、別姓を名乗り名を麟朝と改めた。その後、同門の古藤養山らのとりなしで藩の許しを得て、溝口家お抱え絵師となり、元の師家にも謝罪して赦された。
馬場養龍(不明-不明)
狩野養川院惟信の門人。名は惟澄。馬場伊歳の父親。詳しい画歴は伝わっていない。
馬場伊歳(1783-1854)
天明3年生まれ。狩野伊川院栄信の門人。馬場養龍の子。諱は養純。はじめ伊春、のちに伊歳と改めた。別号に吟雪斎がある。江戸の狩野家にいるころ上州地方を遊歴し、その景勝地を描いた「上州地取」があったという。師の命によって司馬温公の肖像を描いたともいわれる。文政4年「画讃合百首」巻子に松平定信、島津斉宣、松浦清ら9名の和歌百首に絵を描いた。門人を多く育てている。東嘉永7年、72歳で死去した。
古藤養真(不明-不明)
狩野晴川院養信の門人。古藤養山の子。晴川院とその門人によって天保13年に模写された「乙寺縁起」の中に名前がみられる。また、養信が書き溜めた『公用日記』には天保12年から弘化3年までの6年間に名前が数多く登場する。
小林養建(1815-1876)
文化12年生まれ。別号に酔蝶斎がある。はじめ薩摩で馬場伊歳に学び、その後、江戸に出て狩野晴川院養信の門人となった。天保11年、26歳の時に「烏丸光守奥書三十六歌仙絵巻」を模写した。また、『公用日記』には天保11年から弘化2年の6年間に名前がみられる。帰郷後は現在の鹿児島市西田に住み、酔蝶斎と号した。「雲竜図」「竹虎図」など数点が残っている。明治9年、62歳で死去した。
森養淳(不明-不明)
別号に清閑斎、養浩がある。『公用日記』には天保15年に3度、名前が見られることから、馬場伊歳に学んだのち、狩野晴川院養信の門人となったと考えられている。
鹿児島(18)-画人伝・INDEX
文献:薩摩の絵師、美の先人たち 薩摩画壇四百年の流れ、黎明館収蔵品選集Ⅰ、鹿児島市立美術館所蔵作品選集、かごしま文化の表情-絵画編、薩藩画人伝備考