江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

木村探元亡きあとも薩摩画壇を盛り上げた探元の画系

東條探竺「雲竜図」

木村探元の門人で『薩摩画人伝備考』に記載されている能勢探龍、押川元春、和田雪観、山路探定、森探瑞、白石探隠、永井探謙、竹崎元章、安山親定、市成弥平太の10名のうち、有力門人とされる能勢探龍(1702-1755)、押川元春(不明-不明)の2人に次ぐ位置にいたと思われるのが、和田雪観(1706-1777)と山路探定である。

山路探定(1728-1793)は、他の3人よりも一世代若く、白石探隠(不明-不明)らと同様探元晩年の門人とされる。もともと都城の家臣だったが、木村探元の門人となり、のちに江戸に出て鍛冶橋狩野家の若き当主・探牧守邦の後見をつとめた。探定の作品は、探元門人中最も多く確認されており、山口の寺院、仙台や熊本の旧大名家蔵品中にも含まれていることから、探元と有力な門人亡きあとの薩摩画壇を代表する立場にいたと思われる。

探定には5人の門人がおり、そのうち、山路探英と山路探溪は実子である。他の2人の門人、川端探濬と南郷元安は、ともに作品は確認されておらず、東條探竺の作品だけが数点残されている。

森探瑞も探元に学んだのちに狩野家に入門した絵師だが、作品は確認されていない。探瑞の弟である森玄心と子の森三桐も絵師として活躍した。竹崎元章、永井探謙、市成弥平太、安山親定に関しては、詳しい画歴は伝えられておらず、残っている作品も少ない。

森探瑞(1724-1769)
享保9年生まれ。木村探元の門人。探元の門人の中では第二世代に属する絵師であり、探定より4歳年長。名は守安、通称は伝左衛門。探元に学んだのち、江戸に出て狩野家の門に入ったと伝わっている。師は定かではないが、探定が学んだ狩野探林だろうと思われる。探元の探瑞の評価は高く、文献によると代筆を命じることがでるほどだとも記されているが、明らかに探瑞作と思われる作品は確認されていない。明和6年、江戸において46歳で死去した。

森玄心(不明-不明)
木村探元の門人・森探瑞の弟。名は良昌。『薩摩画人伝』には、探瑞の弟で絵をよくすると記されているだけで、師匠の名前は明らかでない。寛政3年、探元が写した探幽筆「学古図」を再び臨写していることから、時代的に探元晩年の弟子であった可能性はある。作品は「富士山図」が残っている。

永井探謙(不明-不明)
木村探元の門人。名は守晟。作品は「墨梅図」「布袋図」などが残されているが、画歴に関しては、『薩摩画人伝備考』に「名ハ守晟画ヲ木村探元ニ学ブ」と記されているのみである。

竹崎元章(不明-不明)
木村探元の門人。本姓は紀氏。諱は武郷、武董。別号に元霄がある。『薩摩画人伝備考』には探元老後の門人と記載されている。作品は「東方朔、夏冬山水図」三幅対がある。

安山親定(1692-1777)
元禄5年生まれ。垂水村の出身とされる。木村探元の門人。安山親信の子。通称は良右衛門。探元門人のなかでは、能勢探龍や和田雪観らより10歳以上年長だが、森探瑞より長命な絵師である。作品は確認されていない。安永6年、86歳で死去した。

市成弥平太(不明-不明)
木村探元の門人。名は武政。詳しい資料や作品は残されていない。

猿川英昌(不明-不明)
能勢探龍の門人。野舟と号し、永井慶竺の養子となった。作品は確認されていない。

森三桐(不明-不明)
森探瑞の子。父に絵を学んだ。名は良実。作品は確認されていない。

山路探英(不明-不明)
山路探定の子。父に学んだ。『薩摩画人伝』に「画ヲ家厳ニ学ビ善クス」とあるだけで、画歴、生没年は不明。『都城画人伝』にも記載されていることから、父の出身地である都城でも活動していたと考えられる。

山路探溪(1762-1816)
宝暦12年生まれ。山路探定の子。父に学んだ。名は通広、通称は守峯。探英同様、都城でも活動していたと考えられる。文化13年、55歳で死去した。

東條探竺(不明-不明)
山路探定の門人。名は守興。探定に学んだ門人のなかで唯一作品が確認されており、「雲竜図」「寿老人図」などがある。

南郷元安(不明-不明)
山路探定の門人。通称は三左衛門。別号に南兼明がある。

川端探濬(不明-不明)
山路探定の門人。

鹿児島(15)-画人伝・INDEX

文献:黎明館収蔵品選集Ⅰ、鹿児島市立美術館所蔵作品選集、薩摩の絵師、美の先人たち 薩摩画壇四百年の流れ、かごしま文化の表情-絵画編、薩摩画人伝、薩摩画人伝備考、薩摩の書画人データベース