江戸初期に登場する薩摩の絵師は、現在の宮崎県都城市周辺の出身者が多い。当時の日向は旧薩摩藩領であり、都城島津氏の北郷家は島津の有力な分家の一つだったことから、都城島津家最初の絵師である白谷卜斎をはじめ、都城の絵師は宮崎県と鹿児島県の両県の絵画史に登場する。
財部盛陳も、その師・阿久根能賢も江戸初期に活躍した都城の絵師である。財部盛陳は、秋月等観の一番弟子・財部寿福坊等見の子孫にあたり、幼いころから阿久根能賢に学び、非凡な才能を発揮したと伝えられている。のちに江戸に出て狩野派に入門したが、20歳の時に絵の上達ぶりを妬んだ他の門人に毒殺されたという逸話が残っているが、真相は定かではない。
盛陳の師・阿久根能賢は、都城島津氏に仕えた山伏の流れを汲む財部一族の人で、のちに阿久根又右衛門良親の養子となり、阿久根姓を名乗った。幼いころから画を好み、京都に出て狩野友信に入門し、7年の修業ののち都城に戻った。作品は残っていないが、京都で二代将軍秀忠の息女和子の入内にあたり、内裏で大規模な造営が行なわれた際、師の友信が作画を命じられ、能賢も「若松図」「海棠に小島図」を描いたという記録がある。
財部盛陳(不明-不明)
俗称は権兵衛。財部銀右衛門実益の子。父・実益は阿久根能賢の従兄にあたる。幼いころから阿久根能賢に師事し画を学び、また領主の北郷久直に仕えて示現流の剣法を修めた。のちに狩野家に入門するが、20歳の時に絵の上達ぶりをねたんだ同門の徒に毒殺されたという。盛陳筆と伝わる「波図屏風」と「芦雁図屏風」が都城の旧家にあり、両図は『都城古今墨蹟集』に掲載されている。
阿久根能賢(不明-不明)
都城島津氏に仕えた財部一族。阿久根又右衛門良親の養子となり、阿久根姓を名乗った。幼いころから画を好み、慶長18年京都に出て狩野派に入門した。師は狩野友信と伝えられている。7年間の修業の後、都城に戻った。作品は残っていない。門人に財部盛陳をはじめ、堪慶、等栄らがいる。
鹿児島(7)-画人伝・INDEX
文献:都城 美の足跡、薩摩の絵師、美の先人たち 薩摩画壇四百年の流れ、かごしま文化の表情-絵画編、薩摩画人伝