讃岐における円山四条派の系譜をみると、まず安芸雲峰の名があげられる。雲峰は寒川郡津田の豪商の家に生まれ、寛政享和年間に活躍した。幼くして円山応挙に画を学び、その技がすぐれていたので、板屋応挙とも言われた。しかし、代々風流を好んだ豪商の家に生まれた雲峰は、職業画人のように門人を持ったり、円山派を広めるような活動はしていなかったとみられる。讃岐地方の円山派としては、幕末になって現れた大西雪溪が、中島来章に師事して一家を成し、石井三峰、逵紫嶂、三好応岸、高畠一溪、海野溪雲、東条南溪ら多くの門人を育て、讃岐の円山派を広めていったと思われる。また、四条派の今尾景年に学んだ馬場景泉は、木島桜谷、今井景樹とともに彩色の秘法を伝授され、同派の継承者となり、帝室技芸員、香川県展審査委員をつとめて香川画壇の発展に貢献した。
安芸雲峰(不明-不明)あき・うんぽう
寛政年間の人。通称は豊蔵。大川郡津田村の人。榮柱の子。画を円山応挙に学んだ。
大西雪溪(1814頃-1892)おおにし・せっけい
文化11年頃生まれ。本姓は高畠。仲多度郡郡家村の人。中島来章に学び、特に人物を得意とした。多くの門人がいる。明治25年、79歳で死去した。
逵紫嶂(1823頃-1888)つじ・ししょう
文政6年頃生まれ。名は祐吉、通称は庄平。三豊郡仁尾村の人。大西雪溪に学び、花卉鳥虫をよくした。明治21年、66歳で死去した。
鮎川一雄(1813頃-1869)あゆかわ・いちゆう
文化10年頃生まれ。丸亀の人。通称は傳八。四条派の画をよくした。明治2年、57歳で死去した。
神原玉江(1823頃-1861)かんばら・ぎょくこう
文政6年頃生まれ。仲多度郡善通寺町の人。通称は武雄。祐斎の子。四条派の画をよくした。文久元年、39歳で死去した。
森琴岳(1863-不明)もり・きんがく
文久3年丸亀生まれ。名は勝次郎。別号に松風軒がある。幼いころから画を好み、村田筆岳に師事して四条派を研究し、特に花鳥、山水を得意とした。
平澤籟山(不明-1901)ひらさわ・らいざん
綾歌郡土器村の人。四条派の画をよくした。明治34年死去した。
馬場景泉(1888-1954)ばば・けいせん
明治21年生まれ。名は藤三郎、別号に吸江斉がある。西植田の人。京都の四条派・今尾景年に師事し、10余年にわたり絵道に専念し、木島桜谷、今井景樹とともに彩色の秘法を伝授され、同派の継承者となった。帝室技芸員、香川県展審査委員をつとめ、晩年は高松市藤塚町に住み作画を楽しんだ。孔雀を最も得意とした。画のほかにも盆栽、作陶、絵付けなどを手掛け、風流人として多趣味な生涯を送った。昭和29年、67歳で死去した。
香川(14)-画人伝・INDEX