明治初期、岩手から「洋画」を求めて上京した画家に海野三岳(1851-1911)がいる。三岳は狩野派を学んだ海野楳岳の二男として盛岡に生まれ、幼いころから父に絵の手ほどきを受け、28歳の時に画家を志して上京、宮本三平の門に入った。
宮本三平は、日本美術の近代化を推進した人物のひとりで、江戸時代に幕府が開設した唯一の洋学研究所である開成所に絵図調方として勤務し、維新後は東京神田に印刷所三平堂を開くほか、東京師範学校の図画教員もつとめていた。
三岳は、明治初期における洋画の最高水準にあるといってよい環境で3年間洋画を学び、帰郷後は盛岡中学の図画教師となり、洋画の制作活動にも取り組んだ。しかし、この時期は、フェノロサらが提唱した日本の伝統美術保護の気運が高まっていく洋画にとっては苦難の時代であり、岩手洋画の本格的開花をみるのは、明治末の次の世代を待たなければならなかった。
海野三岳(1851-1911)うんの・さんがく
嘉永4年盛岡生まれ。海野楳岳の二男。名は融。幼いころから父に絵の手ほどきを受けた。明治11年父の知り合いの実業家・高島嘉右衛門をたよって上京、宮本三平に入門した。明治12年から内務省地理局地籍課に勤務。明治14年に帰郷。明治17年に盛岡中学校の図画教師になり、没するまで27年間勤務した。明治44年、61歳で死去した。
岩手(24)-画人伝・INDEX
文献:盛岡の先人たち、画人・海野家三代、いわて未来への遺産、藩政時代岩手画人録