文政後期の岩手県水沢地域では、小沢晁洲(1811-1877)をはじめ、そのあとを継いだ砂金文洲、菅原竹侶の三画人が中心になって明治初期まで水沢の絵事にあたった。小沢晁洲は、若くして谷文晁に学び、17歳の時には上院で歴史人物画を奉呈するほどの技量に達していたと伝わっている。子に小沢翠石がいる。
砂金文洲(1818-1871)は、四条流を学び、狩野、土佐などの諸派の画法にも通じていたと伝わっている。明治初期に近親の砂金佐太郎を慕って北海道に渡り、各地を遍歴中に小樽付近で没した。文洲亡きあと、菅原竹侶の二男・竹香が砂金家を継いで新小路に住み画業を続け、その子青嶂も画人となった。青嶂は『日本画三代誌 : 砂金文洲・竹香・青嶂 : 江戸後期から昭和中期まで』を著している。
砂金文洲(1818-1871) さがね・ぶんしゅう
文政元年生まれ。名は銕之助、別号に九仙がある。砂金嘉門次郎の子。慶長年間に川原小路東南に住んでいた。四条派の東東洋、東莱らに学んだとされる。小樽付近で明治4年、53歳で死去した。
砂金竹香(1858-1930)さがね・ちっきょう
安政5年生まれ。菅原竹侶の二男。名は健治。画屋名を錦口堂、風月堂と称して新小路に住んでいた。明治6年砂金家を継ぎ、以来明治から大正にかけて絵事や地方芸術文化の発展向上に活躍した。昭和5年、72歳で死去した。
岩手(18)-画人伝・INDEX
文献:水沢画人伝、日本画三代誌 : 砂金文洲・竹香・青嶂 : 江戸後期から昭和中期まで、藩政時代岩手画人録