江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

盛岡藩の浮世絵師・田口森蔭

左:田口森蔭「美人図」
右:田口森蔭「九相図の第1図」盛岡市永泉寺所蔵

盛岡藩の浮世絵師としては、二代喜多川歌麿に学んだと伝わっている田口森蔭(1793-1859)がいる。森蔭は、二代歌麿のほか、葛飾北斎とも交流があったとみられる。盛岡藩士で、勝手方や産物方をつとめていたが、天保8年に、落首による藩政批判により処分を受け、隠居を命じられている。落首とは、狂歌などによって社会や政権を批判・風刺する表現方法のことで、立て札にして人の集まる場所に立てられていた。

また、18歳の時には、盛岡市にある松尾神社の名物「裸参り」に参加する若者数十人の全身に、刺青のように絵を描き込み、街中を練り歩かせたこともある。この年に二代喜多川歌麿が盛岡を訪れており、この行為は、二代歌麿に対する森蔭のアピールとも考えられている。

代表作とされる「九相図」は、人が死ぬと腐敗して白骨となり、土にかえるという仏教の教えを9枚の絵につづったもので、「第1図」(掲載作品)の十二単を身にまとった美しい女性が、やがて死んで腐敗していく姿が描かれている。これを描いたのは天保14年ころで、50歳だった森蔭は目を患い、この9枚の絵を描くのに2年の歳月を費やしてたという。

田口森蔭(1793-1859)たぐち・もりかげ
寛政5年生まれ。通称は八五郎、名は藤長。別号に蹄馬、北風舎、玉屑山人、雪廼屋がある。藩の勝手方や産物方をつとめ、藩の御用窯の山蔭焼や三戸以北の大豆、魚粕の集配・販売に尽力したが、天保8年、藩政批判により処分を受け、隠居を命じられた。文化7年頃、盛岡の黄檗宗大慈寺に逗留していた二代喜多川歌麿に指導を受けた。文政10年に四方歌垣派の判者となり、俳諧歌の指導をし、「俳諧歌森の下風」を発行した。安政6年、67歳で死去した。

岩手(13)-画人伝・INDEX

文献:盛岡藩の絵師たち~その流れと広がり~、藩政時代岩手画人録、宝裕館コレクション、東北画人伝