盛岡藩では、江戸中期以降、狩野派に属さない絵師たちが、江戸や京都で芽生えた新しい画風を学び、帰郷後は藩内でも制作するようになった。代々藩の御用絵師をつとめていた狩野派の絵師たちが、保守的な粉本主義に陥りがちになりかけたころ、藩内に新風を吹き込んだものと思われる。
田鎖鶴立斎(1773-1829)と実弟の本堂蘭室(1776-1843)は、谷文晁の影響を強く受け、中国の故事を題材とした「道釈人物図」や中国風の山水画を好んで描き、漢画派の画家とも称された。掲載の「賓度羅跋囉情闍尊者図」は、兄弟で同じ題材を描き、左右逆の構図となっている。二人は藩の役人をつとめるかたわら、余技として書画をたしなみ、盛岡藩の文人画の先駆けとされる。
田鎖家はもともとは閉伊郡根城(現在の宮古市)に住み、根城を姓にしていたが、鶴立斎・蘭室兄弟の祖である田鎖遠江が南部利直に仕えてから代々南部家に臣となり、文部両道の家柄だった。鶴立斎も幼いころからさまざまな道を学び、絵画もそのひとつだった。絵に関しては特定の師に手ほどきを受けたわけではないが、その技術は周囲を驚かすものだったという。
弟の蘭室も兄にならって幼年期から絵を描いており、こうした兄弟のことが藩内で噂されるようになり、藩主・南部利敬の耳にも入った。利敬は兄弟の才能を伸ばそうと、藩の役人だった二人を藩務という名目で京都、大坂、江戸などへしばしば派遣し、内地留学させた。二人が江戸で学んだのは、漢画の第一人者とされていた渡辺玄対で、さらにその門人である谷文晁にも学んだ。
兄弟は恵まれた環境のなかで着々と腕をあげ、やがて江戸で画会を催すまでになった。この催しも利敬の計画で、日本橋浮世小路の百川楼に文人を広く招き、二人を世に出そうとした。江戸時代の四詩家とも称される大窪詩仏は、二人の作品を見て感嘆し、鶴立斎には「仲子は孤鶴の如、卓立して鶏群に在り」、蘭室には「幽蘭の如く、一室之が為に薫る」とその場で詩を作って送っている。この画会の成功により、兄弟の名は江戸でも高まることとなった。
田鎖鶴立斎(1773-1829)たぐさり・かくりゅうさい
安永2年生まれ。盛岡藩士・田鎖治五右衛門光康の三男で、通称は富治、矢柄といい、光龍、希亮と名乗り、鶴立斎と号した。親戚の田鎖貞右衛門光保の養子となり、寛政6年家督を相続した。藩主・南部利敬の御側役をつとめたほか、通代官や納戸役を歴任した。文化元年から3年がかりで500羽余りの鳥を描き、その功労で50石が加増された。文化13年弟の蘭堂とともに江戸の百川楼で画会を開いた。京都へに出張の折、鎌倉の建長寺秘蔵の顔輝作の尊者を模写した。門人には子の田鎖東岳、甥の田鎖蘭皐らがいる。文政12年、57歳で死去した。
本堂蘭室(1776-1843)ほんどう・らんしつ
安永5年生まれ。田鎖治五右衛門光康の四男。田鎖鶴立斎の実弟。通称は章蔵、左登見、儀右衛門、左右といい、光亀、金卿と名乗った。別号に文心堂がある。藩の賄役や座敷奉行などを歴任した本堂弓左衛門親富の養子となり、享和3年家督を相続した。兄と同じく藩主・南部利敬の御側役となり、文化3年から7年まで「御絵御用」をつとめた。宮古、厨川、野辺地の各通代官などを歴任したほか、勤番としてたびたび江戸を訪れた。天保12年納戸役を病気のため辞し、同年老齢を理由に隠居した。門人には沼宮内蘭渓、泉沢修斎、本堂圭斎らがいる。天保14年、68歳で死去した。
岩手(6)-画人伝・INDEX
文献:盛岡藩の絵師たち~その流れと広がり~、青森県史 文化財編 美術工芸、藩政時代岩手画人録、岩手の美術と文化、宝裕館コレクション、東北画人伝