江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

盛岡藩の国元狩野派・森家

森休印「漆絵立花図」岩手県指定文化財

森家初代となった森五郎兵衛是郷(不明-1740)は、森五郎右衛門吉道の三男で、はじめ表具師として藩に仕えていたが、絵の才能を見込まれて元禄10年から国絵図の作成などに父とともに参加するようになり、宝永年間に麻布一本松狩野家の休山是信に入門し、宝永7年に剃髪して「休印」と名を改めた。

森家二代の保斉常以は、宝永3年に江戸に出て狩野如川に入門、休印没後の元文5年に家督を継いでいる。藩の御用としては、「私鑑抄」によれば、享保17念に噴火した岩鷲山図を作成したほか、享保19年から元文2年にかけて藩士の屋敷絵図を作成している。

保斉常以の後の森家は、喜左衛門、円碩休印、松益元賢、保斉、喜六と続いた。円碩休印と松益元賢は、江戸に出て麻布一本松狩野家の休山為信に入門している。松益元賢は天保7年から9年にかけて国絵図の作成を担当した。保斉は常府の狩野休意の門人となり、嘉永元年家業の稽古のため1年間の休暇願を提出するが、2年後の嘉永3年には御給人となり、絵師を廃業している。

森休印(不明-1740)もり・きゅういん
名は五郎兵衛、字は是郷。森五郎右衛門吉道の三男。別号に東寿軒がある。元禄10年に国絵図の制作手伝いを命じられ、元禄12年に褒美金を下賜された。宝永年間に狩野休山是信に入門した。宝永7年表具師と絵書兼任を命じられ、藩主御側となり剃髪して「休印」と号した。藩の御用として国絵図の作成のほかに、享保3年から5年にかけて幕府提出用の高山図や「かもしか図」を、享保10年には「海上見通し図」などを作成している。元文5年死去した。

岩手(3)-画人伝・INDEX

文献:盛岡藩の絵師たち~その流れと広がり~、青森県史 文化財編 美術工芸