池田瑞月(1877-1944)は、明治10年に石川郡南新保村(現在の金沢市南新保町)の大工棟梁の三男として生まれた。その後、明治38年に京都に出て木島桜谷に師事したことは分かっているが、それまでの足取りは分かっておらず、金沢での師などの経歴は不明である。
明治40年頃には、金沢で画塾を開いていたことが分かっている。この頃から植物の写生に取り組みはじめ、近畿から北海道にかけて植物の写生に歩いている。また、大正13年の金城画壇の設立に参加するなど、金沢での制作活動も行なっているが、この間、金沢と京都のどちらに拠点を置いていたかは不明で、昭和7年には京都に戻ったと思われる。
ライフワークとして全国各地の植物の写生に取り組み、生涯をかけて植物を描いた。昭和7年に木版画集『瑞月草花画譜』を刊行し、昭和10年には約20年の歳月をかけて『草木写生画巻』全12巻を完成させ、さらに続編2巻を追加して昭和18年に全14巻とした。また、晩年を代表する『蘭花譜』は、10年の歳月をかけて原画を完成させたが、刊行は没後の昭和21年となった。
池田瑞月(1877-1944)いけだ・ずいげつ
明治10年石川郡南新保村(現在の金沢市南新保町)生まれ。本名は永治。明治38年京都に出て木島桜谷に師事した。明治40年頃に「翠雲」と号して金沢で画塾を開いた。この頃から草木写生画を描きはじめた。大正元年金沢で武村常之助、木村杏園らと青々会を結成。大正3年十二双会を設立。大正7年雅号を「瑞月」と改号。大正13年金城画壇設立に参加。大正15年第3回金城画壇展で監査員として加わり、北陸絵画協会30周年記念表彰を受けた。昭和4年頃北海道小樽に居住していたが、昭和6年には金沢の親族のもとに身を寄せている。昭和7年京都に戻り、同年木版画集『瑞月草花画譜』を刊行。同年実業家の加賀正太郎と出会い『蘭花譜』の原画制作にとりかかる。昭和10年『草木写生画巻』全12巻完成。昭和17年『蘭花譜』の原画完成。昭和18年『草木写生画巻』続編2巻完成。昭和19年、67歳で死去した。
石川(31)-画人伝・INDEX
文献:池田瑞月 草花と生きた画家(石川県立美術館紀要23)、燦めきの日本画-石崎光瑤と京都の画家たち、新加能画人集成