江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

鈴木派四天王随一と称された梶野玄山

梶野玄山「番孔雀図」

梶野玄山(1868-1939)は、加賀国石川郡松任町(現在の白山市)に生まれ、3歳の時に父を、5歳の時に母を亡くし、幼年期から祖父母に引き取られて養育された。祖父の喜右衛門は金沢の村田芝園について画を学び、喬雲と号し、当時松任で盛んだった染物業の模様絵師として働いていたと思われる。

玄山は、幼いころから祖父に学問を学び、画の手ほどきも受けていたようで、祖父にならって松任小牧の型屋(春日屋久兵衛)に入り、同じ絵描き仲間の阿閉雲涯らと小牧染の模様絵を描いていた。

12歳で当時の中等教育を終え、翌年から師について画の修業を始めるが、はじめついた金沢の飯田華亭は東京に去り、ついで師事した津田九僊とも一年余りで別れることとなり、その後は金沢で画塾を開いていた垣内雲嶙の門に入り、雲嶙が没するまで師事した。

その後、本誓寺の住職・松本白華の勧めで京都に上り、当時全国的に画名の高かった鈴木松年の門に入った。京都に住居を定めてからは、多くの知遇を得て、後援者による様々な画会に出品し、次第に画名も高まっていき、鈴木派四天王のひとりに数えられるようになった。

孔雀図を得意とし、京都の住居には孔雀の雌雄を飼ってその姿態をつぶさに研究していたと伝わっている。大正13年、皇太子御成婚記念に孔雀の図を献上して御物として納められ、鈴木派四天王随一と讃えられた。

梶野玄山(1868-1939)かじの・げんざん
明治元年加賀国石川郡松任町(現在の白山市)生まれ。名は定吉。明治13年垣内雲嶙について画を学んだ。明治31年真宗大谷派の高僧本誓寺住職・松本白華の勧めで京都に上り、鈴木松年に師事した。明治32年から7年間、大谷派真宗京都中学絵画科教授をつとめた。大正13年皇太子御成婚記念に孔雀の図を献上した。昭和14年、71歳で死去した。

石川(17)-画人伝・INDEX

文献:郷土と文化14号、石川の美術-明治・大正・昭和の歩み、燦めきの日本画-石崎光瑤と京都の画家たち、新加能画人集成