江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

藩政の改革につとめた加賀藩士・寺島応養

寺島応養「漁楽図」

寺島応養(1777-1837)は、通称を蔵人といい、高岡町奉行、定検地奉行、改作奉行、大坂借財仕法主付など藩の諸役を歴任し、第11代藩主・前田斉広の重用を受けて藩政の改革につとめた。しかし、晩年は貧しい人々に同情して藩政を厳しく批判したため年寄層と対立し、反対派によって能登島に流され、翌年、配所で病死した。

画人でもあった蔵人は、多くの作品を残しているが、画を学んだ経緯や師系ははっきりしない。地元の文化人である津田菜窠や浅野屋秋台をはじめ、文人墨客との交友が多く、文化5年(1808)に金沢を訪れた浦上玉堂も寺島邸に長く滞在していることなどから、その交流のなかで画技を高めていったと思われる。

現在一般に公開されている「武家屋敷 寺島蔵人邸」に残る四畳間は、玉堂がここで琴を弾くために蔵人が増築した部屋と伝わっている。

寺島応養(1776-1837)てらしま・おうよう
安永5年生まれ。加賀藩士。加賀藩人持組の原弾正元成の第3子。名は兢、字は季業、通称は蔵人。別号に静斎、乾泉亭、王梁元がある。幼いころから秀才の誉れ高く、15歳で学校読師となり、郡奉行、改作奉行、御普請奉行などをつとめ、のちに第11代藩主・前田斉広の重用を受けて活躍したが、斉広没後に奥村栄実ら老臣の忌避にあり、能登島に流刑となった。文人墨客との交友が多く、来遊した浦上玉堂を歓待した。天保8年、62歳で死去した。

津田菜窠(1742-1813)つだ・さいか
寛保2年生まれ。金沢の人。生家は代々医業を営んでいた。名は養、字は合同、合大、通称は道乙、随分斎、豹阿弥。別号に菜窩がある。俳諧は高桑蘭更に学んで青野と号した。金沢で医業を営んでいたが、明和5年大坂に移り医業を開いたが、母の病気のため帰郷した。寛政12年に隠居して豹阿弥と改めた。学問を好み、諸技に通じ、独自の画風の南画を描いた。文化10年、72歳で死去した。

浅野屋秋台(不明-1815)あさのや・しゅうだい
金沢の町人・書画家。通称は彦六。別号に戴笠道人、阮蓑野王、青蓑道人、息斎などがある。畳製造を生業とし、晩年金沢町会所の吏員をつとめた。詩文、書画をよくし、書ははじめ松花堂の書法を学び、のちに蘇東坡の書風を慕った。篆刻に巧みで、寺島応養をはじめ亀田鶴山、榊原拙処らの印を彫刻したという。文化12年死去した。

寺島応姜(1812-1881)てらしま・おうきょう
文化9年生まれ。寺島応養の娘。名は志於、秀。別号に玉英がある。父応養の手ほどきを受けて若いころから画法を学んだと思われ、父応養が流刑地から応姜に宛てた手紙の中には「一緒に絵の修業ができず残念至極」と記されている。久世守衛の子主馬肇を婿養子として寺島家を継いだ。明治14年、69歳で死去した。

石川(12)-画人伝・INDEX

文献:武家屋敷 寺島蔵人邸跡所蔵品図録、金沢市史通史編2(近世)、金沢市史資料編16(美術工芸)、新加能画人集成