江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

すぐれた肖像画を残し夭折した中村彝

中村彝「エロシェンコ氏の肖像」東京国立近代美術館蔵

中村彝(1887-1924)は、明治20年に茨城県仙波村(現在の水戸市)に生まれた。生家は代々徳川家に仕えた旧士族の名家で、祖父の三五右衛門は、藤田東湖の『回天詩史』にも掲載されている。明治31年、12歳の時に家族とともに東京に移住、はじめは軍人を志して名古屋陸軍の幼年学校に入学したが、肺結核のために退学、東京に戻った。

18歳の時に転地療養のために訪れた千葉県北条湊(現在の館山市)で水彩スケッチを始め、その後は洋画家を志すようになる。明治39年に白馬会研究所に入り、翌年太平洋画会研究所に移り、中村不折、満谷国四郎らにデッサンを学んだ。明治42年には太平洋画会展で奨励賞を受け、同年第3回文展に初入選し、褒状を受けた。

画家として次第に名前を知られるようになったころ、新宿中村屋の主人・相馬愛蔵夫妻の厚意で、中村屋の裏に画室を移した。ここで生活しながら多彩な芸術家と交流し、先進的な相馬家の影響で西洋絵画に接するうち、セザンヌやルノワールに傾倒するようになり、彼らの芸術と融合した画風を確立していった。

また、相馬氏の娘である俊子をモデルに一連の少女像を描き、下記掲載の「少女」は、大正3年の第8回文展で3等賞となった。彝は次第に俊子に激しい恋愛感情を抱くようになり俊子に求婚するが、結核を理由に相馬家に反対され、その後の彝の精神状態に影を落とすことになる。

その後も文展で受賞を重ね、大正5年の第10回文展では特選を得て、大正9年第2回帝展に出品した、ロシアの盲目詩人を描いた「エロシェンコ氏の肖像」(上記掲載)も好評を博した。同作は大正11年にパリで開催された日仏交換展にも出品された。この年の第4回帝展の審査員に推挙されたが、肺結核が悪化していたため、出品も審査もかなわず、その2年後に37歳で死去した。

中村彝「小女」新宿中村屋蔵

参考:UAG美人画研究室(中村彝)

中村彝(1887-1924)なかむら・つね
明治20年茨城県仙波村(現在の水戸市)生まれ。生まれた翌年に父を亡くし、母も彝が11歳の時に没した。その後も10代の時に兄2人と姉1人を相次いで亡くしている。明治31年に家族とともに東京に移住。はじめは軍人を志し、明治34年名古屋陸軍幼年学校に入学したが、肺炎のために断念。明治38年、18歳の時に転地療養のため千葉県北条湊(現在の館山市)に赴き、この地で水彩スケッチを始めた。明治39年白馬会研究所に入り中原悌二郎と出会う。翌年太平洋画会研究所に移り、中村不折、満谷国四郎に師事した。その間も千葉県などへの転地療養を繰り返した。明治42年太平洋画会展で「自画像」が奨励賞を受賞、同年文展に初入選し褒状を受けた。明治43年には太平洋画会展で「風景」が宮内省買上げとなり、同年第4回文展で「海辺の村」が3等賞を受賞。明治44年、新宿中村屋の主人・相馬愛蔵夫妻の厚意で、中村屋の裏の画室に移り、相馬俊子をモデルに一連の少女像を描いた。次第に俊子に激しい恋愛感情を抱くようになり求婚するが結核を理由に反対され、この失恋が元で煩悶することになる。大正3年の第8回文展で「少女」が三等賞となり、大正4年の第9回文展「肖像」が2等賞、文部省買上げとなり、大正博覧会や平和博覧会にも入賞、太平洋画会では会員となった。肺結核による喀血を繰り返し療養しながら画を描きつづけ、大正5年第10回文展で「田中館博士の肖像」が特選となり、同年新宿区下落合に画室を新築し、以後没するまでこのアトリエで創作活動を行なった。大正9年第2回帝展に出品した「エロシェンコ氏の肖像」が好評を得て、大正11年パリで開催された日仏交換展にも出品された。同年第4回帝展の審査員となったが、この頃には病状がさらに悪化しており、ほとんど作品を描くことができず、出品も審査もかなわなかった。大正13年、37歳で死去した。

茨城(26)-画人伝・INDEX

文献:中村彝とその周辺、開館20周年記念 茨城県近代美術館所属作品、水戸の先人たち