明治10年代、東京大学の教師として招かれた米国人アーネスト・フェノロサは、日本美術の優秀性を強調し、伝統的狩野派の様式に西洋画を折衷した新しい日本画を作り出そうとした。その頃、東京大学の学生だった岡倉天心(1862-1913)は、フェノロサの日本美術研究を手伝うなかで日本美術に開眼し、卒業して文部省官僚となってからは、フェノロサとともに日本美術復興運動を推し進め、28歳で東京美術学校の校長となり、橋本雅邦らを協力者に迎え、新しい日本画創造運動のリーダーとなった。
しかし明治31年、伝統美術推進路線に離反する動きや、私生活でのスキャンダルも絡み、天心は東京美術学校を追われることになる。校長の職を辞した天心は、大学の上に大学院があるように、美術学校においても美術院の設置が必要であるとの考えから、その半年後、橋本雅邦、横山大観ら元美術学校教員らとともに東京谷中に在野の美術団体・日本美術院を創設した。日本美術院は、美術の研究、制作、展覧会の開催、機関誌の発行を主な活動とし、その年のうちに日本絵画協会と合同で第1回展を開催した。
以後、天心の指導を受けながら大観や菱田春草ら青年画家たちは、日本画の革新に向けて独自の道を歩むことになる。天心の「空気を描く工夫はないか」という示唆に対しては、空刷毛を使ったぼかしの技法や絵の具の胡粉を混ぜて質感を表現する工夫を行なった。それまでの伝統的日本画における描線を画面から消し、西洋画との折衷を試みた手法だったが、当時こうした新しい画風は「朦朧体」と称され、世間の嘲笑の的となった。
朦朧体の批判を受け、日本美術院の活動もかげりを見せ始めた明治後半期、その不振を打開するため、天心は新たな活動の場として海外に目を向けた。明治37年、天心は大観や春草らを連れてアメリカに渡り、ボストン美術館の中国・日本美術部で美術品の収集や整理にあたる一方で、『日本の覚醒』『茶の本』など日本や東洋の思想や芸術を紹介する本を英語で書いた。大観や春草らは、日本人として初めてニューヨーク、ボストンなど各地で展覧会を開いて好評を博し、さらに大観は、絵画研究のため英国にも官費留学した。
一方、天心をはじめとした主要会員が海外に出ている間、日本美術院は停滞し存続の危機を迎えていた。天心は日本美術院を立て直すため、明治39年に日本美術院第一部(絵画部)を茨城県五浦に移転し、茨城県出身の大観、木村武山をはじめ、春草、下村観山らも家族とともに五浦に移り住み研鑽に励んだ。しかし、ボストンと日本を往復する天心の活動が鈍るにつれて日本美術院の活動も減少していった。
日本美術院が事実上の解散状態になっていた大正2年、天心が50歳で病没。大観は天心の精神を引き継ぐべく、翌大正3年、中心になって東京谷中に研究所を建設、日本美術院を再興した。
岡倉天心(1862-1913)おかくら・てんしん
文久2年横浜本町五丁目(現在の横浜市)生まれ。幼名は角蔵、または覚蔵、のちに覚三と改め、天心と号した。幼時に英語、漢籍を学び、明治8年東京開成学校(のちの東京大学)に入学。当時東京大学のお雇い外国人教師として招かれていたアーネスト・フェノロサから直接学び、また通訳をつとめた。明治13年東京大学を卒業し文部省に入省。フェノロサとらと奈良、京都の古社寺を歴訪し、法隆寺夢殿の秘仏救世漢音像を開扉するなど古美術の調査を行なった。明治20年に文部省内に設置された図画取調掛が東京美術学校と改称され、同校の主幹となった。明治22年帝国博物館理事兼美術部長に就任、明治23年東京美術学校校長となった。明治31年学校内騒動をきっかけに校長の職を辞し、半年後東京谷中に日本美術院を創設した。明治37年に渡米し、ボストン美術館中国・日本部顧問(のちに部長)となり、東洋美術品の収集、整理や目録作成を行なうため、日米間を往復した。欧米、中国、インドを歴訪するかたわら、東洋の美術および精神について、『東洋の理想』『日本の覚醒』『茶の本』などの英文書を著した。その後経営難に陥っていた日本美術院を立て直すために明治39年に日本美術院第一部(絵画部)を茨城県五浦に移転した。大正2年病気のためボストン美術館に休職願を出して帰国、その後病状が悪化し、同年新潟県赤倉において、50歳で死去した。
茨城(21)-画人伝・INDEX
文献:天心と五浦の作家たち、岡倉天心没後100年記念展 天心の思い描いたもの ぼかしの彼方へ、茨城の画人、日本美術院ホームページ