五百城文哉(1863-1906)は、水戸藩士の家に生まれ、幼少期を水戸で過ごしたのちに上京、明治17年に農商務省山林局で標本を描く仕事に就いた。また、同時に高橋由一や小山正太郎の画塾に通い本格的に洋画を学んだ。明治20年東京府工芸品共進会に出品、明治23年には第3回内国勧業博覧会で褒状を得るが、これに前後して農商務省を退職、画壇からも離れて旅の生活に入った。旅先では土地の名士たちの肖像画を描いては画料を得てまた旅に出るという生活を続けていた。
明治25年、日光に立ち寄った際に「日光東照宮陽明門」を描き、翌年のシカゴ・コロンブス万国博覧会に出品した。こうした縁もあって以後は日光に落ち着き、明治39年に42歳で没するまでの十数年をこの地で過ごした。その間、生計を立てるために日光を訪れた外国人向けに東照宮などの風景を水彩で描いており、この時の作品が近年になって相次いで発見され、五百城の再評価の重要な一因となっている。
また、日光での生活のなかで、高山植物に強い関心を抱き、情熱をそそいだ。自宅の庭で高山植物を栽培し研究に打ち込み、植物学者の牧野富太郎や武田久吉らとも交流した。五百城の植物画は、西洋画の技法を用い、植物学的知識に基づきながらも標本的ではなく、現在のボタニカルアートの先駆的存在といわれている。
五百城文哉(1863-1906)いおき・ぶんさい
文久3年水戸生まれ。父は水戸藩士。本名は熊吉。明治17年農商務省山林局雇となり標本を描いた。同年高橋由一の画塾で学び、また小山正太郎の画塾にも入門した。明治23年第3回内国勧業博覧会で褒状。同年農商務省を退職、肖像画を描きながら北茨城から日光にかけて巡遊した。明治26年シカゴ万国博覧会に「日光東照宮陽明門」を出品、以後日光に隠棲、中央画壇から離れた。高山植物に関心を寄せ、牧野富太郎、武田久吉ら植物学者とも交流、写生をもとにした植物図を多数残した。漢詩、書などにもすぐれていた。明治39年、42歳で死去した。
茨城(19)-画人伝・INDEX
文献:茨城の美術史、水戸の先人たち、五百城文哉展、五百城文哉 高山植物写生図