江戸時代中期の浮世絵師・磯田湖龍斎(1735-不明)は、土浦藩土屋家の藩士だったが、浪人となり、その後浮世絵師に転身したとされる。雅号の「湖」は霞ヶ浦にちなんだものだとする説があり、湖畔に生まれ、土屋家に仕えて江戸詰になるうちに画技を通じて鈴木春信と親しくなり、ついに武士を捨てて浮世絵師として立つにあたり、昇天の龍たらんとする気概を込めて「湖龍斎」にしたと推察する研究者もいる。
湖龍斎は、はじめ春広、湖龍斎春広と号して、同門の先輩鈴木春信風の美人画を描いた。以前は西村重長の門人とされていたが、鈴木春信からの影響が強く、師弟の関係にあったのではないかといわれ、現在では鈴木春信の門に学んだことが定説になっている。赤色を多く使って錦絵を細長くつぎ、吉原遊女絵などを描いた「柱絵」といわれる絵が多かったが、その後、安永中期頃より豊麗な独自の美人像を確立した。
天明2年、48歳の時に浮世絵師としては異例の法橋位を得ている。その際の法橋申請記録により、江戸両国薬研堀不動前に住んでいたことや、湖龍斎の兄が江戸馬喰町一丁目の家主・中村良助という人物だったこと、湖龍斎は当時無位の旗本の家来だったが、法橋を得るためにその家来を離れたことなどが分かっている。この頃から肉筆画制作を活動の中心とするようになっており、没年は不明だが、54歳までの作画活動が確認できている。
磯田湖龍斎(1735-不明)いそだ・こりゅうさい
享保20年生まれ。本姓は藤原、名は正勝、俗称は庄兵衛。神田小川町土屋家の浪人と伝わっている。春広の名で明和年間後期から安永初期にわたり、鈴木春信風の美人を描いた。その後、安永中期頃より豊麗な独自の美人像を確立した。大判一枚絵に遊女や禿を描き出した連作「雛形若菜の初模様」シリーズは、湖龍斎の代表作である。また、柱絵の分野でも多くの作例を残している。天明2年、浮世絵師としては異例の法橋位を得てからは、肉筆画にすぐれた作品が多い。
茨城(6)-画人伝・INDEX
文献:茨城の画人、林美一〈江戸艶本集成〉 第2巻(鈴木春信・磯田湖龍齋)