三木翠山(1887-1957)は、兵庫県加東郡社町(現在の加東市)に生まれた。幼いころから画を好み、同じ社町の三木南石に画の手ほどきを受け、望まれて三木家の養子となった。その後京都に出て竹内栖鳳(参考)に師事し、大正2年第7回文展で初入選し、以後は文展、帝展、新文展に出品した。
師の栖鳳の助言もあって美人画に独自の境地を開き、京都画壇における美人画家としての地位を確固たるものとし、昭和27年にはアメリカに渡り、ニューヨークを中心に各地で美人画の個展を開催して好評を博した。
一年余りのアメリカ滞在で美術を中心とした国際交流の必要性を実感した翠山は、インターナショナル三木アート・サロンの建設を計画し、ここを拠点に展覧会の開催や日本美術の海外へ発信、さらには外国美術の紹介や受け入れを実現しようとした。また、人物交流と様々な国際交流の窓口となることも考えていたと思われる。
しかし、不動産詐欺にあい、壮大な計画もかなわず、東山の家屋敷アトリエも借財のために手放すことになってしまった。失意の翠山は精神的にも追い詰められていたと思われ、その2年後75歳で急逝した。
三木翠山(1887-1957)みき・すいざん
明治20年兵庫県加東郡社町(現在の加東市)生まれ。本名は斎一郎。同郷の森月城は親戚にあたる。明治36年京都に出て竹内栖鳳に師事、竹杖会会員となった。大正2年第7回文展で初入選し、以後帝展、新文展に出品した。美人画、風俗画を得意とした。昭和27年渡米し美人画の個展を開催した。昭和32年、75歳で死去した。
関連:UAG美人画研究室
兵庫(32)-画人伝・INDEX
文献:兵庫ゆかりの日本画家たち展、兵庫の美術家県内日本画壇回顧展、三木翠山展