但馬国城崎温泉の旅館「伊勢屋」の長男として生まれた斎藤畸庵(1805-1883)は、幼少時に父を亡くし、耳を悪くするなかで早くから詩文に親しみ、15歳の時に京都に出て中林竹洞に南画を学んだ。師の没後は紀州那智、九州耶馬渓、甲州など日本各地を遊歴し、その間も郷里にはたびたび帰り、但馬の各地に多くの作品を残している。
斎藤畸庵(1805-1883)さいとう・きあん
文化2年但馬国城崎生まれ。実家は旅館を営んでいた。名は淳、字は仲醇、幼名は小太郎、のちに文之助と改めた。別号に息軒老人がある。京都に出て中林竹洞に学び、さらに元・明・清初の画法を修めた。嘉永6年の竹洞没後は播州を経て四国、九州をはじめ諸国を遊歴し、兵庫県下では明石の素封家宅に長く逗留したと伝わっている。明治9年に初めて東京に出て、その後神田駿河台に住んだ。明治14年第2回内国勧業博覧会で褒状を受けた。同展には子の斎藤乗堂も出品している。明治16年、79歳で死去した。
兵庫(19)-画人伝・INDEX
文献:兵庫を歩いた近世の画家、兵庫の美術家県内日本画壇回顧展、コレクションでたどる姫路市立美術館の25年、兵庫の絵画100年展