島琴陵(1782-1862)の前半生はよく分かっていないが、もと南部藩士で、江戸で人を殺して出奔し、逃亡先の長崎で来舶清人らと交遊して画を学んだと伝わっている。長崎派の写実的な花鳥画を得意とし、その画風は沈南蘋派の系譜にあって熊斐や宋紫石に近いとされ、姫路とその周辺に多くの作品を残している。
姫路には姫路藩家老の高須隼人(書山)の招きで訪れ、船場本徳寺の接客となったとされる。雅号の「琴陵」は、姫路城の西にある薬師山の別名「琴丘(琴岡)」に由来しているといわれ、このあたりに居を構えたと考えられている。
実子の島琴江(1821-1899)も同じく画を描き、姫路の地に作品を残しているが、生地などの経歴は不明で、父のもとで画法を学んだと思われる。画風は父の琴陵に比べより自在で洒脱な趣が感じられる。
島琴陵(1782-1862)しま・きんりょう
天明2年生まれ。もと南部藩士。名は鵬。江戸で人を殺めたため長崎へ逃げたとされる。のちに高須隼人に招かれて姫路本徳寺の接客となった。長崎に滞在した際に、多くの来舶清人らとの交遊から長崎派の花鳥画を学んだと思われるが、姫路来住以前の消息は不明。弟子に福島半邨がいる。文久2年、80歳で死去した。
島琴江(1821-1899)しま・きんこう
文政4年生まれ。島琴陵の子。父のもとで画を学んだと思われる。弟子に藤本煙津がいる。明治32年、78歳で死去した。
兵庫(17)-画人伝・INDEX
文献:神戸・淡路・鳴門 近世の画家たち、コレクションでたどる姫路市立美術館の25年、兵庫の絵画100年展、兵庫の美術家 県内日本画壇回顧展