江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

鈴木鶏邨、田中抱二ら抱一工房を支えた門人たち

鈴木鶏邨「秋草に小禽図」細見美術館蔵

酒井抱一の門人としては、最初期の弟子である鈴木蠣潭、江戸琳派様式の拡大に貢献した鈴木其一、其一と並び称される高弟の池田孤邨らが知られているが、ほかにも寡作ながら抱一の画風をよく伝えている鈴木鶏邨、抱一四天王の一人として活躍した田中抱二ら多くの門人が抱一工房を支えた。

抱古(不明-不明)ほうこ
江戸吉原青楼の主人で、抱一の門人と伝わっているが詳細は不明。文政頃の活躍があるという。近年知られるようになった数例には本格的な画技がみられる。

抱和(不明-不明)ほうわ
字は子同。現存作品としては「瓶梅図」(細見美術館蔵)が伝わるのみだが、抱一と親しい文化人と思われる。抱一と鶯蒲、孤邨とともに絵馬の合作をしている。

鈴木鶏邨(不明-不明)すずき・けいそん
酒井抱一の門人。名は範俊、字は知雄、通称は市太郎。別号に東天紅廬がある。江戸浅草馬道に住んでいた。作品は「秋草図風炉先屏風」と「秋草に小禽図」(掲載作品)のみが知られる。抱一画風をよく習得し、無断で師の代作をして遊蕩にふけったと伝わっており、そのため自身の落款を施す作品が少ない可能性もあると考えられている。

田中抱二(1805-1885)たなか・ほうじ
文化9年江戸の両替町生まれ。酒井抱一の門人。父親は質商を営んでいた。名は金兵衛真昌。別号に鶏旭、青々、青々葊、軽挙、華月、松柏子などがある。俳句もよくし、俳号を鶯居といった。文政7年13歳の時に抱一に入門した。文政11年に抱一が没した時は17歳だったが、抱一との合作の例もあり、早くから師風をよく継承していたと思われる。足が悪かったため向島に若隠居したと伝わっている。小林清親や野澤堤雨も近所に住んでおり行き来があったと思われる。明治期になってウィーン万国博覧会やフィラデルフィア万国博覧会、第1内国絵画共進会などに出品した。弟子に泉梅一がおり、孫の田中克二も画を描いた。明治18年、80歳で死去した。

水上景邨(不明-不明)みなかみ・けいそん
酒井抱一の門人。通称は治作。別号に嘯々洞がある。浅草に住んでいた。浅草寺に伝わる「四季花鳥図大絵馬」の背面銘によると信州水内郡の出身で、17歳で江戸に出て抱一に学び、のちに法眼に叙されたという。詳細は不明ながら、抱一に近く、かなりの活躍があったことが推測されている。

守村抱儀(1805-1862)もりむら・ほうぎ
文化2年生まれ。酒井抱一の門人。江戸浅草蔵前の札差。名は約、字は求己、または希曾、通称は次郎兵衛、善太郎ともいった。別号に小青軒、不知斎、鴎嶼、邨約、経解、松篁、交翠山房、真実庵などがある。俳諧や漢詩、茶道にも通じ、江戸随一の蔵書家だった。俳人としても活躍し、小沢何丸の後援者としても知られる。抱一の画風をよく理解した本格的な作例のほか俳画も好んで描いている。文久2年、58歳で死去した。

守邨桃磯(不明-不明)もりむら・とうき
酒井抱一の門人。名は喜三郎、長栄、字は鮮夫。別号に不識、長茶子がある。浅草御蔵前旅籠町に住んでいた。現存作品としては「向日葵」(細見美術館蔵)がある。

山田抱玉(不明-不明)やまだ・ほうぎょく
酒井抱一の門人。名は直刻、字は子飾、通称は鍒太郎(一説には鎌太郎)。別号に絢斎、青帰、瓊華堂がある。二代山田抱玉もおり、初代の子で、山田直喬といい、字は子徹、通称は重右衛門、別号に赫々堂がある。

兵庫(13)-画人伝・INDEX

文献:酒井抱一と江戸琳派の全貌、江戸琳派 花鳥風月をめでる