酒井抱一(1761-1829)は、徳川家重臣の名門大名家である酒井家の15代家主忠恭の二男として江戸神田小川町の酒井家別邸に生まれた。代々風雅を愛した酒井家にあって、抱一も幼いころから俳諧や書画をたしなみ、画は6歳上の兄・宗雅と同じく、狩野永徳高信や宋紫石から学んだ。
12歳の時に兄・宗雅が第16代酒井家主となり姫路藩主を継いだため、抱一は自由な環境のもと、天保期の江戸ののびやかな気運のなかで青年期を過ごし、吉原で名を馳せ、狂歌や浮世絵など江戸の市井文化にも親しみ、奔放な制作活動を繰り広げた。
しかし、抱一を庇護していた兄・宗雅が36歳で病没し、酒井家17代を抱一の甥・忠道が継承したため、酒井家のなかで居場所を失った抱一は、兄の死の3年後には酒井家の屋敷を出て隅田川河畔の本所番場に転居し、ついに37歳の時に出家して酒井家を離れた。
武士の身分を離れた抱一は、その頃から尾形光琳の画風に傾倒するようになる。光琳は一時酒井家に召し抱えられていたこともあり、酒井家に残る光琳作品に幼いころから接していたことが、抱一を100年以上も歳の離れた光琳の作品に傾倒させていった要因と思われる。
抱一は光琳の画技を習得するとともにその顕彰にもつとめ、55歳の時には江戸で光琳の百回忌の法要や展覧を行ない、その記念に『光琳百が図』を刊行した。さらに京都・妙顕寺の荒れ果てた光琳の墓の整備なども行ない、光琳の後継者として自他ともに認める存在となっていった。
また、創作活動は琳派様式の制作だけにとどまらず、風俗画や仏画、吉祥画や俳画をはじめ、多様な工芸意匠も手掛け、さまざまな主題や作風に対応しうる柔軟性を発揮し、多くの文化人と交流しながら多彩な画業を展開した。
60歳前後からはより洗練された花鳥画を描くようになり、光琳風を基盤としながらも、従来の琳派様式とは一線を画し、写実性や余白を活かした構図なども取り入れ、のちに「江戸琳派」と呼ばれる独自の画風を確立していった。
酒井抱一(1761-1829)さかい・ほういつ
宝暦11年江戸神田小川町生まれ。姫路藩主・酒井忠恭の孫。酒井宗雅は実兄。幼名は善次、通称は栄八、字は暉真、本名は忠因。別号に屠龍、庭柏子、軽擧、鶯村(邨)、雨華庵などがある。兄とともに多くの文化人と交遊し、俳諧、書画を嗜んだ。青年期は大田南畝の影響で狂歌に親しみ、肉筆浮世絵も手掛けた。30代半ば頃から尾形光琳に私淑し、寛政9年、37歳の時に築地本願寺に出家し本格的に制作活動に入った。文化6年に下谷根岸の雨華庵に落ち着くまでの10余年、江戸を転々とした。文化12年光琳の百回忌の法要や記念展覧会を行なうなど光琳顕彰につとめた。多くの門人を抱え、のちに江戸琳派と呼ばれる一派を形成した。文政11年、68歳で死去した。
兵庫(11)-画人伝・INDEX
文献:酒井抱一と江戸琳派の全貌、江戸琳派 花鳥風月をめでる、神戸・淡路・鳴門 近世の画家たち