江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

明石の近世画人・岡田東虎と林半水

岡田東虎「八相涅槃図」信州松本・宝栄寺蔵

岡田東虎(1755-1822)は、明石城下西本町(現在の明石市)の旅宿「井筒屋」の子として生まれた。はじめ西宮の勝部如春斎に学び、福原五岳にもつき、のちに大坂の狩野派・吉村周山にも学んだという。人物や花鳥画を得意とし、明石の朝顔光明寺の天井画などを描いた。

その技量は円山応挙も一目置いていたといい、応挙が西遊する門人に「明石に岡田東乕(虎)あり、狩野派を能くす、侮るべからず」と言ったという逸話が伝わっている。その真偽は不明だが、応挙の門人である長沢蘆雪が東虎と親しく、しばしばその邸に泊まっていたことは事実と思われる。

また、林半水(不明-不明)は、生没年など詳しい経歴は不明だが、江戸詰めの明石藩士だったと思われ、渡辺崋山と交流したことが分かっており、崋山と同時代の画家だったと推測されている。

岡田東虎(1755-1822)おかだ・とうこ
宝暦5年明石城下西本町(現在の明石市)生まれ。生家は旅宿・井筒屋。通称ははじめ信右衛門、のち与一右衛門。名は方強(住吉神社の絵馬のみ方彊)、字は東虎、浥露軒、景晋斎と号した。藩主から映窓の号を賜り、以後は「台賜映窓」などと署名した。画は勝部如春斎、福原五岳、吉村周山らに学んだ。文政5年、68歳で死去した。

左:林半水「海棠小禽図」、右:林半水「花籠小禽図」

林半水(不明-不明)はやし・はんすい
名は儀助。経歴は不明な点が多いが、江戸詰めの明石藩士だったと思われる。渡辺崋山と交流があったようで、『森銑三著作集』第6巻の渡辺崋山伝にそのような記載がある。また、文化12~13年、崋山23、4歳の日記に頻繁にその名が見られ、絵手本の貸し借りなどをしていることが分かっている。

兵庫(05)-画人伝・INDEX

文献:神戸・淡路・鳴門 近世の画家たち