黒田泊庵(1742-1812)は、淡路国津名郡下物部村の人で、先祖は播州の出身で寛文年間に淡路に移り住んだ。泊庵までに4代を経たが、播州との関わりは続いていたらしく、播州地方にも泊庵の作品が残されている。
はじめ狩野派を学び、23歳の時に長崎に遊学し、南蘋派の熊代熊斐の門に入った。滞在7年で淡路に帰ったが、数年後には上方に遊び、ついで名古屋へと漂泊を続け、この16年の間、淡路では誰も居場所を知らなかったという。
泊庵に学んだ黙庵(不明-1833)は、三原郡八幡村の賀集山護国寺の住職で、護国寺の墓碑に「量空法印 天保四年十月十八日」とあることから、僧として高位まで上がった人だと思われる。画風は師に似ているが、泊庵より温雅で、掲載の「松鶴図」のような合作もある。
黒田泊庵(1742-1812)くろだ・はくあん
寛保2年淡路国津名郡下物部村生まれ。実家は鋳造業を営んでいた。通称は吹屋吉作。名は旺、字は仲維。田旺と署名することも多い。長崎で熊代熊斐に師事した。文化9年、70歳で死去した。
黙庵(不明-1833)もくあん
僧名は量空。洲本の矢野家の出身。三原郡八幡村の賀集山護国寺の住職となり、黒田泊庵から画を学んだ。経山、嵩山、黙々と号した。天保3年死去した。
兵庫(03)-画人伝・INDEX
文献:近世淡路島の画家たち、神戸・淡路・鳴門 近世の画家たち