1920年から30年代のパリには、伝統を学び、新しい思潮を吸収するため、世界各国から芸術家たちが集まっていた。そんなパリで生活し創作を続ける芸術家たちのことを総称して「エコール・ド・パリ」と呼んだ。北海道からも工藤三郎、小柳正、山田正らがこの時期にパリを目指している。なかでも小柳正は15年以上もパリで制作を続け、エコール・ド・パリの代表的な画家・藤田嗣治とも親しく交遊した。
小柳正(1897-1948)については、作品が数点といくつかのモノクロ作品図版しか残っておらず、パリでの制作の全貌はうかがいしれないが、ハリウッドのトップスター早川雪洲ばりの風貌で、友人である藤田の2度目の妻フェルナンド・バレエとも浮名を流したといわれる、根っからのボヘミアンで、当時パリにいた日本人画家の間でも、その存在はかなり際立ったものと伝えられている。
昭和12年に帰国した際には、郷里札幌で地元画家たちと座談会を行ない、その内容は新聞紙上に4回にわたって連載されている。地元画家たちは小柳に、絵画と民族、パリ画壇の内情などさまざまな質問をし、小柳はそれに自信に満ちた語り口で明快かつユニークな答えをし、北海道の画家たちに大きな影響を与えたという。
その後、東京に定住したらしいが、一説には再渡欧したともいわれている。また、アメリカに渡り1年あまりで帰って来たとも伝わっている。ただ、明らかなのは、昭和17年に名前を改めて日本橋高島屋で「小柳倍伸第1回作品展覧会」を開催していることと、その6年後に東京で死亡していることである。
小柳正(1897-1948)こやなぎ・ただし
明治30年札幌生まれ。北海中学を中退後、上京して岡田三郎助に学んだ。大正3年日本美術院洋画部の第1回展に入選、翌年も同展に入選している。大正9年に札幌の今井呉服店で個展を開催、その年にフランスに渡り、サロン・ドートンヌ会員、サロン・ド・チュイレリー会員として活動した。昭和17年に日本橋高島屋で展覧会を開催、その際の展覧会目録によれば、フランスの国立美術館、アーブル美術館、モスコー国立美術館に作品を買い上げられ、ドイツ、フランスで壁画を制作したとされている。昭和23年、51歳で死去した。
山田正(1899-1945)やまだ・ただし
明治32年札幌生まれ。札幌一中で林竹治郎に学び、北大農業実科に進学して黒百合会で絵画に親しんだ。昭和2年春陽会に入選し本格的に画家を目指して上京、3年後に渡仏して約3年間滞在、サロン・ドートンヌなどに出品した。帰国後は国画会に出品した。昭和22年、46歳で死去した。
北海道(32)-画人伝・INDEX
文献:上山二郎とその周辺、北海道美術の青春期、北海道美術あらかると、美術北海道100年展、北海道の美術100年、北海道美術史