江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

三岸好太郎とともに上京し、25歳で没した俣野第四郎

俣野第四郎「良子之像」北海道立近代美術館蔵

三岸好太郎の無二の親友だったのが、札幌第一中学出身で三岸より1歳年上の俣野第四郎である。二人は一緒に上京し、貧しい共同生活のなか、励まし合い、刺激し合いながらともに画家を目指した。しかし、中学時代から結核を患っていた俣野は、療養先の沼津で25歳の短い生涯を閉じてしまう。悲しみにくれる三岸は「片腕失った気がする」と嘆き、札幌と東京で俣野の遺作展を開催し、友の死を悼んだ。

函館に生まれた俣野第四郎(1902-1927)は、明治40年に一家で札幌に転居した。大正3年に札幌第一中学に入学、翌年入学してきた三岸好太郎と同校の美術クラブ霞会で知り合い、以後無二の親友となる。生来病弱な体質で、中学時代に結核を発病し休学している。大正10年、三岸とともに上京してしばらく窮乏の共同生活を送った。時にはひとつの絵具箱を交代で使いながら、絵の勉強に励み、春陽会、中央美術展などに入選。大正12年には三岸、小林喜一郎と札幌で三人展を開き、大正14年の道展第1回展には、特別会員として出品している。

大正13年、大連、ハルピンを旅行したが、強行な日程が災いしたのか体調を悪化させ、翌年春に療養のため静岡県の沼津に移ることになった。沼津では散策をしながらスケッチをしたり、気が向けばそれを油彩にした。穏やかな環境のなかで制作をしていたが、中央で活躍する三岸や友人たちに対する焦燥感があったのか、昭和2年3月に沼津ではじめての個展を開催する。しかし、その準備による疲労や雨にうたれたことから肺炎にかかり、同年4月25歳で没した。

俣野第四郎(1902-1927)またの・だいしろう
明治35年函館生まれ。明治40年函館大火を契機に一家で札幌に移り住んだ。大正3年北海道庁立札幌第一中学校に入学、学内の美術クラブ霞会に所属し、林竹治郎の指導を受けた。同会で一学年下の三岸好太郎と知り合い、以後無二の親友となる。大正6年肺結核を患い一時休学。大正9年同中学を卒業し、受験のため上京するが失敗。このころ岸田劉生の展覧会を見て傾倒するようになる。いったん札幌に戻るが、大正10年に三岸とともに再上京して受験し、東京美術学校建築科に入学。大正11年中央美術展に初入選。大正12年体調不良のため東京を離れ、千葉の房総や鎌倉で1ケ月ほど過ごした。大正13年春陽展に初入選するが、同年10月体調がさらに悪化、翌年美術学校を休学し、療養のため母とともに沼津に転居した。大正15年春陽会展、聖徳太子奉讃美術展覧会に出品。同年には妹の良子も療養のため沼津に来ている。昭和2年3月沼津で個展を開催。個展準備の疲労と雨に濡れたため肺炎にかかり、同年4月、25歳で死去した。

北海道(28)-画人伝・INDEX

文献:北の夭折の画家たち、青春の軌跡-三岸好太郎と俣野第四郎、それぞれの青春-俣野第四郎・三岸好太郎・久保守、北海道の美術100年、美術北海道100年展、北海道美術史