江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

「義経蝦夷渡り伝説絵馬」を描いた北條玉洞

北條玉洞「義経蝦夷渡り伝説絵馬」三笠市幌内神社蔵

悲運の武将といわれた源義経には、さまざまな伝説が残っており、「義経蝦夷渡り伝説」もその一つである。『吾妻鏡』や『義経記』が伝える史実としては、文治5年の衣川の合戦で、義経は藤原泰衝に衣川館を攻められて自害したとされているが、この伝説によると、実は義経は死んでおらず、蝦夷地に渡って、その地を征服し大王と仰がれ、のちにオキクルミという神となり、アイヌの人々に崇拝されたということになっている。さらに伝説は発展して、義経が金国や韃靼に渡ったとする説や、義経=ジンギスカン説まで登場している。

義経がなったとされる神・オキクルミとは、創生神話に登場する最初の英雄神で、国土を破壊しようとするさまざまな魔神を退治したという伝説が残っている。オキクルミにはサマユンクルという従兄弟(弟とも)がいて、短気で慌て者だったとされている。このアイヌ神話がもとになって、蝦夷を訪れた和人によって、オキクルミを義経、サンユンクルを弁慶とみなした「義経伝説」が語られ、アイヌの間に広まっていったものと考えられている。

また、江戸幕府による同化政策も伝説を広める一因となった。幕府は、アイヌの人々を日本人に帰属させるために、最初の英雄神は日本人であるとするこの「義経伝説」を積極的に利用し、広く流布したものと思われる。新井白石の『読史余論』をはじめ、読本や錦絵にも多く取り上げられ、絵画や絵馬もいくつか残っている。明治になっても、北海道の開発を進める政府は、アイヌに対する同化政策を継続し、幌内炭鉱で採掘した石灰を運搬する蒸気機関車を「義経」「弁慶」と命名している。

北條玉洞(1850-1923)
嘉永3年盛岡生まれ。本名は盛英。北條壮山の子。別号に陸泉、陸僊、白鱗などがある。俳号は蚊雷庵澄水。幼いころから画を好み、はじめ平塚研樵と川口月嶺に学び、17、8歳ころに上京して川端玉章に入門した。21歳で岩手県租税課検地御用係として官職につき、同県の四等巡査、第三課地租課をへて、明治11年に開拓使として函館に渡った。函館支庁会計課、同支庁地理課に籍を置くかたわら、明治15年第1回内国絵画共進会に北宗派で号陸泉として函館から、明治17年第2回内国絵画共進会に円山派で号陸僊として札幌から出品した。明治19年には石狩・北條盛英として東洋絵画会会員となり、白鱗の号で出品している。明治24年、40歳の時に函館曙町で絵画私塾を開き、その3年後には函館青柳町に北海道最初の絵画専門学校を開校した。さらに函館商業学校、函館中学、函館高女の図画教員をつとめ、田辺三重松らを育てた。昭和2年、78歳で死去した。

北海道(17)-画人伝・INDEX

文献:アイヌ絵、蝦夷志、アイヌ絵とその周辺、北海道美術あらかると